辻丸 義人
辻丸 義人(70)
辻丸 義人さん(70) 爆心地から1.8キロの本原町2丁目で被爆 =長崎市岩川町=

私の被爆ノート

裸で うめく負傷者

2010年2月25日 掲載
辻丸 義人
辻丸 義人(70) 辻丸 義人さん(70) 爆心地から1.8キロの本原町2丁目で被爆 =長崎市岩川町=

当時、6歳。多くを記憶するにはあまりに幼すぎた。被爆した家族全員が口を閉ざし、あの日のことが語られることはほとんどなかった。被爆した時の記憶は、断片的にしか残っていない。

疎開先の長崎市本原町2丁目の祖父母宅に8人で住み、山里国民学校の1年生だった。8月9日は学校には行かなかった。朝から空襲警報が鳴っていたからかもしれない。午前11時ごろは、自宅内の玄関付近で遊んでいた記憶がかすかにある。

いきなりだった。閃光(せんこう)も、爆音も感じる間もなかった。猛烈な爆風で7~8メートル吹き飛ばされ、壁にたたきつけられた。落ちてきた何かが頭部を直撃。血がしたたり落ちた。父はカボチャの実をすりつぶし「赤チン」の代わりにその傷口に塗った。

9日の記憶はこの程度しかない。その後どう逃げたのか、付近はどんな様子だったのか、どこで夜を明かしたか、何もかも思い出せない。ただ怖かった。

翌10日、爆風の影響で首の骨を折った祖父が、避難先の防空壕(ごう)で死んだ。屋外で被爆した母は顔や腕などに大やけどを負い、近くの病院に収容され、治療を受けていた。

母に会いたい-。数日後、父に連れられ病院に。大勢のけが人が横たわっていた。「うー、うー」と低いうめき声。多くの人は裸の状態。だが体は真っ黒だ。直視できなかった。「異様だ」と感じた。母はやけどを負った顔からうみが出ていて、父は母の顔に冷えた灰を塗っていた。

終戦後、母の知人を頼りに同市城山町に住んだ。年末には母のやけどを治そうと熊本県水俣市の温泉で湯治生活。顔のやけどは良くなったが、腕にはケロイドが残った。

翌年4月、学校に通い始めた。2回目の1年生。文房具やノートは、焼け跡から拾い集めた。ゆっくりだが、次第に日常が戻ってきた。日常が戻るにつれ、家族全員が被爆について語ることがなくなっていった。思い出すだけで苦しくなるからだった。
<私の願い>
あの経験は原爆に遭った人でしか分からない。自分の被爆体験を伝えなければいけないと思うが、思い出すだけでつらい。子や孫にも話せなかった。だが、年を重ねるにつれ危機感が募ってきた。子や孫に自分の体験を残さなければ。体験を伝えることは、生きた証しを残すことにもなる。

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