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私の被爆ノート

夢中で担架を運んだ

2010年2月18日 掲載
池田 繁久(83) 池田 繁久さん(83) 救護のため入市して被爆 =南島原市布津町甲=

徴用を受け、16歳から西彼香焼村(当時)にあった川南造船所で、鉄板と鉄板を接ぐ「かしめ」という仕事に従事していた。原爆が落とされた当時は18歳だった。

8月9日もいつも通り、長崎市大浦元町(当時)の下宿から造船所に出勤。あの瞬間は船の中で仕事をしていた。船から出ると、工場の窓がほとんど割れ落ちていた。ものすごい爆風だったのだと思う。長崎市の方向を見ると黒煙が上がっていた。「長崎がやられた」と思った。造船所から船で長崎市に戻ると、下宿は無事だった。

会社の命令で、翌日からは市内を回り、けが人を担架で運搬することになった。朝から大波止に集まり、4人一組で浦上駅周辺に向かった。街は焼け野が原。目に入る建物はほとんどが全壊だった。車輪だけが残っている電車もあった。

浦上川では、水を欲しがり、頭を突っ込んで亡くなっている人や、川に落ちて亡くなっている人がたくさんいた。広場には黒焦げの遺体が並べられていた。

がれきをどけ、けが人を捜しては担架に乗せて野戦病院があった寺町に運んだ。何も残らないように燃えてしまい、めちゃくちゃな街。道という道はなく、がれきをどけながら歩いた。1人を運び終えたら、次のけが人を捜した。

助けを求めてくる人もいれば、うずくまって口が利けない人もいた。けが人を捜し、助けるのに精いっぱいで、亡くなっている人は、かわいそうだとは思ったが、かまうことができなかった。

ずっと気が張っていた。とにかく夢中で担架運びをしていたように思う。すれ違う人も分からないぐらいだった。きついとか何とか言っている場合ではなかった。

日に日に、残っているけが人は少なくなり、1週間が過ぎると、ほとんどいなくなった。担架運びは8月21日ぐらいまで続いて終わり、汽車で地元の布津に戻った。

あの時、担架で運んだ人たちは生きているだろうか。今でも、ふと思うことがある。
<私の願い>
原爆の悲惨さは実際に体験してみないと分からない。あんな悲惨なことを、誰が起こしたのかということを考えるべきだ。いつまでもにらみ合っている状態では世界は進歩していかない。各国の首脳がきちんと話し合って、核兵器をなくしてほしい。平和で暮らしやすい世界になってほしい。

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