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私の被爆ノート

どこ見ても死体ばかり

2010年2月11日 掲載
高尾 哲夫(82) 高尾哲夫さん(82) 爆心地から2.3キロの尾上町で被爆 =西彼長与町斉藤郷=

長崎駅は、いつものように疎開する人でごった返していた。当時18歳だった私は、報国隊として疎開する人の荷物を列車に積むため、毎日長崎駅に通っていた。あの日、いつものように駅の事務所にいた。そんな普通の日が一変した。友人と昼食に出ようとカーテンを閉めた時だった。カーテンを閉めていても外が真っ黄色になったのが分かるほどの光だった。一気に建物が崩れ、私と友人は重なるように倒れ、梁(はり)の下敷きになった。

しばらく気絶していた。かすかに「助けてくれー」などと悲鳴にも似た声が聞こえ、意識が戻った。逃げようと思ったが足の骨を折っていて足が動かせない。その場で必死に助けを求めることしかできなかった。

運良く、憲兵に引っ張り出してもらった。2、3人の憲兵に担いでもらい、現在のNHK長崎放送局の裏に移動した。そこには目が飛び出している人、皮膚がベロリとはがれている人、ほっぺたに大きな水膨れができている人などがいた。むごい姿を見ても「地獄はこんなものだろうか」と人ごとのように感じた。他人のことを考える余裕はなかった。

夕方、折れた足を引きずりながら愛宕に住む姉の家に行く途中、通い慣れた駅前を通った。そこには体が真っ黒にやけている人、体の半分だけやけている人、死体は何体も重なっていた。恐ろしさで足がすくみ、座り込んだ。

翌日、西彼長与町の自宅に向かう時も驚きの連続だった。どこを見ても死体ばかり。原爆が落とされる前、立ち並んでいた家は一軒もなくなっていた。焼け野原にうずくまった状態で死んでいたり、電車の中でつり革を持ったまま死んでいる人もいた。

道を歩けば「助けて」「水をくれ」と足をつかまれた。水さえ持っていれば飲ませたかったが、持ってない。「すまんけど離してくれんね」。そう言って急いでその場を離れた。あの人の命が途絶えるかもしれない-。そんな歯がゆさを感じながら、家に向かった。家に帰りたい一心だった。
<私の願い>
口先だけで「平和」と言うだけでは真の平和はない。オバマ米大統領が「核兵器のない世界にしよう」と言ったが、まずは米国自ら核兵器をなくす。有言実行が大事。あんなむごい体験を子どもや孫にはさせたくない。日本だけでなく世界中で戦争がない世界を願う。そのために暴力は絶対に反対。

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