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私の被爆ノート

火が追い掛けてきた

2010年1月14日 掲載
吉元 満雄(82) 吉元 満雄さん(82) 爆心地から1.0キロの油木町で被爆 =松浦市調川町=

1941年、14歳の時に郷里から長崎市へ。三菱長崎工業青年学校に通いながら三菱長崎兵器製作所の茂里町工場と大橋工場で働き、44年に油木町の市立商業学校の室内体操場内に設けられた工場に異動。飛行機に載せる魚雷の部品を作っていた。

原爆投下の9日は午前8時に出勤。いつもと同じような真夏の一日。午前10時ごろまでは晴れていたが、徐々に雲に覆われた。

「グーン」。工場の中央部で作業をしているとB29の重たい音に気付き、外で空を見上げたが、何も見えなかった。2分ほどしてだろうか。一瞬の出来事だった。

原爆投下からどれくらいたったかは定かではない。気付いたときには、体は外に吹き飛ばされ、工場そばの溝にうつぶせの状態だった。

その直後、爆風というより火そのものが追い掛けてきた。はっきり分かった。溝にいたので火の直撃を免れた。腕と足の一部をやけどしたが、気が張っている状態で痛みは全く感じなかった。

工場は骨組みを残す程度。詳しく中を見る余裕はなく、逃げるのに必死だった。運動場には多くの人が集まってきたが、顔が腫れたり、ただれ方のひどい人も多く、誰が誰なのか分からない状況。その場で息絶える人もいた。悲惨な光景は今でも脳裏から離れない。

その後、寮のある住吉方面に向け歩いた。一面焼け野原で生きている人の姿はあまりなかった。

途中、けが人を列車に乗せる手伝いをした。駅のホームではないので、数人で頭の上まで持ち上げて乗せた。日が暮れるまで作業が途切れることはなかった。

一緒に作業をした人たちと、三菱兵器住吉トンネル工場で夜明けを待った。暗かったので、詳しい様子は分からない。

翌日朝、寮に戻ると炊き出しが行われていて、原爆後初めて食事を口にした。そこでソ連が参戦したと新聞で知り、その場にいた軍人に実家に戻るよう指示され、2日がかりで松浦に戻ってきた。一緒に長崎に行った仲間の多くは原爆の犠牲になった。
(松浦)

<私の願い>
体調を崩すたびに原爆を受けたためではないかと不安にさいなまれる。心の後遺症は一生消えることがない。一番上の兄が戦死。私も終戦時は18歳で、召集がいつかかってもおかしくなかった。とにかく、戦争は絶対にしてはならないし、たった一発で多くの命を奪う原爆を造ることは許されない。

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