被爆当時は幼かったので記憶がない。なので私の体験談は、一緒に住んでいた家事手伝いの「ねえや」=当時(20)=から聞いた話と、3人の兄のうち一番年下の兄が9年前に出版した「きのこ雲との闘い」が基になっている。
原爆投下の約1年前、建物疎開で長崎駅そばの自宅兼材木店から本原町1丁目(現扇町)に引っ越した。両親、ねえや、3人の兄、姉、私の8人で暮らしていた。
あの日は、縁側前の庭で6歳の姉と遊んでいた。12歳と9歳の兄が近くの山で捕ってきたセミ10匹ほどをそれぞれひもで結び、私に渡した。それを振り回すと姉の髪に絡みついたので、姉はたんすが並ぶ奥の部屋にいた母の元に走り、私もひもを持ったままついていった。
母は「ここは暑かけん」と言って縁側に向かおうと姉と私の手を取った時、窓ガラスからピカッと光が差し込んだ。母はとっさに私たちを抱き寄せた。崩れてきた天井はたんすが支えとなり隙間ができ、私たちは無事だったが生き埋めになった。
「奥さーん、どこですかー」。配給物を受け取って帰宅したばかりのねえやが叫んだ。「ここよー」と母。「どこですかー」「たんすの部屋」。ねえやと、両足のふくらはぎをやけどした12歳の兄が、柱や瓦などを懸命に取り除き、助け出してくれた。
9歳の兄は吹き飛ばされて風呂場のれんがの壁にたたきつけられ頭が血だるまになり、13歳の兄は倒れてきた茶棚を支えようとした右手がガラスをぶち抜き、骨が見えるほどぐしゃぐしゃになった。12歳の兄の親友が遊びに来ていたが、縁側から自宅に戻ろうとした瞬間に被爆。遺体は見つからなかった。私も縁側にいたら生きていないかもしれない。自転車で出掛けていた父は山かげで被爆し軽傷を負ったが、無事に帰宅した。
12歳の兄はしばらくは、ねえやや父と一緒にベニヤや廃材で小屋を建てるなど元気だった。次第にだるさを訴えるようになり、口の中にぶつぶつができたり、体に小さい斑点が出たりした。9月12日、母がそばにいてずっと手を握っていたが、亡くなった。
兄は積み上げた廃材の上で火葬された。遺体は燃えながら体を起こすような動きをしたようで、私は「兄ちゃんは立ち上がろうとしたのに火の中に落ちていった」と泣きながら話していたという。
<私の願い>
核兵器は人間が造り出したので、人間しか廃絶できない。そのためにも日本中の国民がその恐ろしさを認識しなければならない。戦争を知らない人たちが増えているが、原爆の惨状を通し命の大切さを感じ、二度と核兵器を使わないでほしい。