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私の被爆ノート

腕や顔の傷あと消えず

2010年1月7日 掲載
杉本 幸安(82) 杉本 幸安さん(82) 爆心地から1.1キロの大橋町で被爆 =長崎市花丘町=

「よし、おれが丈夫な台車を探してくるけん」。材料を運ぶ途中で台車が壊れたので、仲間を木陰で休ませ、代わりを探しに工場に入った。突然、目の前が青白く光り、そのまま気を失っていた。

17歳だった私は三菱長崎兵器製作所大橋工場内鍛造工場で働いていた。魚雷の推進機やかじを取り付ける部品を作った。熟練者が次々と兵に召集され、養成工上がりの私が班長をしていた。

ガタッ。屋根の破片が当たった衝撃で目が覚めた。機械音が響いていた工場は静まり返り、鉄くずや黒ずんだ機械だけが残っていた。すぐ横に、大型クレーンが崩れ落ちていた。ぞっとした。

痛みをこらえ起き上がると、無我夢中で走った。工場の壁を越えて目に飛び込んできたのは地獄絵図。血で赤黒くなったり、皮膚が焼けただれて逃げまどう人々。山の避難所へ向かう途中、橋の近くでうずくまる男性がいた。破けた下腹から出た腸を自分の手で押し込んでいたその光景は、今も脳裏から離れない。

しばらく山の中にいた。私は右腕と顔を負傷していた。肩先から手の甲まで細かいガラスが突き刺さり、指の血管から血が噴き出ていた。小鼻の上が斜めに切れ視界はおぼろげで、タオルで止血しても止まらない。「このままでは死ぬ」と思い山を下った。先ほどの男性はもう動かなくなっていた。橋の上で、母と姉に会えた。「無事で良かった」とぎゅっと抱きしめられたが、当時はまだ何が起こったのか分からなかった。

防空壕(ごう)で寝ていたが出血がひどく、1人で救援列車に乗り大村市の陸軍病院に行った。そこでは治療できず、嬉野市の海軍病院へ向かった。トラックの荷台で揺られながら、だんだんと意識は遠のいていった。

それからのことはあまり覚えていない。原爆で妹は命を落とした。腕や顔の傷は治ったがその傷あとはずっと消えず、青春真っ盛りだった私にはあまりにも残酷だった。鏡で傷あとを見るたびに、原爆を恨んだ。
<私の願い>
昨年8月6日付の本紙「被爆ノート」に、原爆で亡くなった妹艶子のことが書いてあった。被爆体験を語るのはつらく苦しいが、孫たちにも伝えたい。恐ろしい核兵器を、今また造ろうとしている国がある限り、世界の平和は来ないのではないか。核なき世界が一刻も早く来ることを願っている。

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