大賀 大茂
大賀 大茂(80)
大賀 大茂さん(80) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =佐世保市棚方町=

私の被爆ノート

避難途中 出血で失神

2009年12月3日 掲載
大賀 大茂
大賀 大茂(80) 大賀 大茂さん(80) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =佐世保市棚方町=

旧制県立長崎中から三菱長崎兵器製作所茂里町工場に動員され、級友たちとエンジン部品製造に従事。建物1階で作業中、ピカッと異常な光が走った。とっさに旋盤機械の下に身を隠した。爆風で舞い上がった粉じんで暗くなり、息苦しかった。建物が鉄筋コンクリートだったので倒壊を免れ助かったのだと思う。

だが、背中や手足には割れた窓ガラスの小さな破片が刺さっていた。被爆後10年ほどは冬場の寒い時、傷がチカチカとして痛かった。右太ももには今も数ミリのガラス片が入ったまま。

原爆が落とされた後、決められていた長崎医科大方向の防空壕(ごう)に避難するつもりだったが、「医大も全滅」と聞き、金比羅山越えで西山の下宿先を目指した。茂里町工場近くで見た燃えた電車の中では、乗客がイワシの生焼けのような姿で死んでいた。

山王神社付近で、倒れた木造家屋のかもいの下敷きになった婦人から「学生さん、助けて。助けて」と懇願された。自力では抜け出せない状態。かわいそうだったが、1人ではどうすることもできず、「すんません」と言って立ち去った。たぶん、助からなかっただろう。悪いことをしたと今でも思っている。

金比羅山に登る途中で、出血による貧血のため意識を失った。「水、水くれー」と言う声で目が覚めた。登山道の脇はやけどで皮膚が腫れ上がった人たちが動けずにいた。夕方になっていた。

翌8月10日朝、勝山国民学校の救護所へ傷の手当てを受けに行くと、廊下にも大勢の負傷者が寝かされていた。私のけが程度では相手にしてもらえなかった。

被爆後、脱毛や下痢といった急性症状はなかった。ただ、建物内で粉じんを吸ったからなのか肺胞がやられ、ちょっとした運動で息切れする。入院したことがあるし、通院が続いている。

原爆の体験は私の子どもには話したが、高校教員時代は生徒に語らなかった。思い出したくなかったからだ。
<私の願い>
原爆で中学の同級生たちが犠牲になったが私は生き残り、この年まで生きた。運が強かったのだろう。戦争で兄が戦死している。戦争の非人間性やむごたらしさを内地で体験し、平和のありがたさ、いかに尊いかを知っているつもりだ。平和を維持していかねばと思っている。

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