当時16歳。長崎医科大付属病院の小児科で看護師として働いていた。小児科では、数十人の医師、看護師や職員が勤務していた。治療室でカルテを整理していたら「ブーン」という爆音が聞こえてきた。敵機が来たと思いカルテを置いた瞬間、稲妻のような光が差し、気を失った。
気がつくと、辺りは真っ暗闇。しばらくすると、周りが薄明るくなって「自分は生きているんだな」と分かった。着ていた白衣は割れた窓ガラスでズタズタに裂け、履いていた草履はなく、はだしだった。
外では、水道管が破裂し水が噴き出していた。薬剤師の女性と医学生がいて、2人に支えられ逃げた。道端には全身にやけどをして、ほとんど裸のような状態の学生5、6人がうつぶせで折り重なっていた。
途中、道路脇に20代前半ぐらいの医学生の男性が座っていたが、右腕はなかった。そして「自分はもう駄目です。自分の白衣とゲートルで歩ける人の止血をしてほしい」と話した。一緒に逃げていた医学生が男性の白衣と、ゲートルで私の右脇の下と腕を止血した。その男性の名前も聞かずに別れ、その後どうなったのか分からないことが、今も心残りでならない。
歩き続けてのどが渇き、缶に入った水を一口ずつ分け合い飲んだ。普通なら飲めないような濁った水だった。
その後、金比羅山の高射砲陣地から少し降りた民家に泊めてもらった。その夜、街は火の海だった。飛行機の音がブンブン鳴り、牛が鳴き続けていた。異様な雰囲気で、とにかく怖くて傷の痛みも感じなかった。
翌日、通りかかったトラックに乗せてもらい実家がある古賀まで帰った。吐き気がおさまらず、39度を超す高熱が続いた。「もうおしまいか」とも思ったが、両親が柿の葉やゆずなどをせんじて飲ませて看病してくれた。髪が抜けるなどして、療養生活は8カ月も続いた。
頭や首、右脇下、足など全身に切り傷があり、今も体のあちこちにガラスの破片が残っている。
<私の願い>
被爆から60年以上たつが、あの日のことは忘れられない。自分は片腕を失っているのに私を助けようとした医学生の声が今も頭に残っている。燃え上がる火が怖くてストーブさえつけられない。子や孫にこんな苦しみを味わってほしくない。戦争も核兵器もない平和な世界をつくらなければならない。