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私の被爆ノート

遺体に油かけて焼く

2009年11月12日 掲載
諸岡 定雄(82) 諸岡 定雄さん(82) 入市被爆 =佐世保市広田町=

当時早岐機関区の機関士見習。講義中に長崎市の方がピカッと光った。午後3時ごろ情報が入った。新型爆弾で長崎が全滅したらしいと。

救援に向かう準備を始めた。夕方、60人ほどいた機関士見習を集めて割り振りをした。私が一番年上だったから。

第1陣として貨車にショベルやロープなど一式を積み10日午前5時に早岐を出発。大村までは順調だったが、だいぶ待たされ、道ノ尾駅には同9時ごろ着いた。

煙がもうもうと来ていた。丘上のクスノキが長崎側は焼けて枯れたようなのに反対側は青々。遠くに長崎港口が見通せた。原爆で建物が破壊されていたからだ。

まず線路上の障害物を取り除き、汽車が通れるようにした。歩いて長崎駅まで行った。焼け野原に人が座ったまま、立ったままで息絶え、赤く濁った浦上川近くでは馬が腹を大きく膨らませて死んでいた。

「水、水…」のか細い声も聞いた。地獄とはあんな光景を言うのだろう。遺体は長崎機関区構内で油をかけて焼いた。何人も。いまだに不思議なのは、負傷者にすぐにうじがわいたこと。ハエ一匹いなかったのに。

2日目からは救援列車に負傷者を乗せる活動。駅には大勢避難し線路沿いは負傷者で山のよう。乗せようと手を引くと、皮膚がべろっとむけた。 死臭を紛らわせるため、消毒用の酒を飲まざるを得なかった。今もケチャップを食べることができない。女の人のブルマの下にのぞいていた傷口の色を思い出すから。

貨車に負傷者を乗せると、敷いていたむしろに傷が当たって痛いのか「ひー、ひー」と悲鳴を上げた。ヨモギなどの葉を上に敷いてやった。乗せる時は元気だったのに、乗せたとたん、安心したのか死んだ。

救援活動は1週間続けた。その影響からか27、28年ごろ肝臓を悪くした。福岡県まで治療に3年ぐらい通った。不眠症には今も悩まされている。精神安定剤がいる。昼寝もできない。ぐっすり寝たい。
<私の願い>
戦争とはこんなに惨めなのかと当時思った。今でもテレビなどを見ていてよみがえる。戦争がどんな結果をもたらすか簡単に言葉で表せない。体験していない人には、この気持ちは理解しにくいだろう。体験した人は誰でも二度と同じ光景は見たくない、絶対繰り返してはならないと思う。

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