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私の被爆ノート

戻る場所なくなった

2009年10月29日 掲載
山下 重則(79) 山下 重則さん(79) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =南島原市布津町乙=

当時15歳。三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤務していた。あの日の仕事は、仲間十数人との防空壕(ごう)掘り。工場裏門の監視当番だった私は空を見上げ、もうすぐ昼だなと考えていた。

突然、空がピカッと光り、ドーンというものすごい音とともに振動のようなものを感じた。目が見えなくなり、耳も聞こえなくなった。何が起こり、自分がどういう状況なのか。まったく分からなかった。

仲間の「山下行くぞ」という声でわれに返り、抱きかかえられて木陰に連れていかれた。しばらくぼうぜんと休んでいると、顔が燃えるように熱い。こらえ切れないほどの痛みも襲ってきた。顔全体をやけどしていた。話すのも困難なほど唇は腫れ上がっていた。

数時間後、汽車が来るという連絡が入り、仲間と体を支え合いながら駅に向かった。道端には多くの死体が転がり、体中が焼けただれた人たちと擦れ違ったが、自分たちのことで精いっぱいだった。汽車で諫早に向かう途中、目を覆いたくなる光景を思い出した。諫早では、駅近くの学校で治療を受けた。顔は包帯でグルグル巻き。ミイラ男のようだった。

会社や友人のことが気になり、翌日、再び汽車で長崎に向かった。会社に行くと、建物の鉄骨はあめのように曲がり、屋根はすべて落ちていた。住んでいた坂本町の家は焼け、一帯は変わり果てていた。ただただあぜんと立ち尽くすばかりだった。

長崎に私が戻る場所はなかった。次の日、汽車で布津町の実家に向かった。汽車を降り、歩いて帰る途中、見知らぬ男性に「あんた、どがんしたとね」と声をかけられた。思わず、いつも通りに仕事をしていたこと、目も見えず耳も聞こえず、何が何だか分からなかったこと、長崎で見た変わり果てた街や人々のことなどを必死で説明した。

男性は「かわいそうにね」と5円を手渡してくれた。原爆で何もかも失った私には、涙が出るほどうれしかった。どんな時でも、人の温かさほど救いになるものはない。
<私の願い>
街は焼け、罪のない多くの人たちが前触れもなく死んでいった。その死体をよけながら歩いたあの日、誰にもぶつけることのできない怒りや悲しみの中で、戦争は二度と起こしてはならないと強く思った。二度とあのような苦しみが繰り返されてはいけない。核のない社会を望む。

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