阿野 茂保
阿野 茂保(73)
阿野 茂保さん(73) 爆心地から2キロの本原町3丁目(当時)で被爆 =諫早市真崎町=

私の被爆ノート

母子の死体 今も脳裏に

2009年10月22日 掲載
阿野 茂保
阿野 茂保(73) 阿野 茂保さん(73) 爆心地から2キロの本原町3丁目(当時)で被爆 =諫早市真崎町=

父は出征し、銭座町の祖父宅で祖父母と母、姉2人、弟2人と暮らしていた。銭座国民学校に通っていたが、空襲警報などで授業がよく中断していたので、3年生になるとき祖母ら5人で本原町の借家に疎開。山里国民学校に転校した。当時9歳。祖父宅は下宿を営んでいたので、祖父と母、長姉の3人は銭座町に残った。

あの日は疎開先の家の前に植えられたカキの木の下で、友人5、6人と将棋を指していた。「ブーン」という飛行機の音がしたので、みんな一斉に逃げた。飛行機を探そうと空を見上げると突然、「ピカピカッ」と稲妻のような激しい閃光(せんこう)が目の前を走った。

何事かと思った瞬間、体は吹き飛ばされ、カキの木にぶつかり、気付いたときには2メートルほどあるがけの下にある畑にたたきつけられていた。次第に具合が悪くなり、意識が遠のいていった。

どれくらいの時間が過ぎただろうか、気が付くと辺りはもやがかかったように真っ白になっていた。今考えると、あれが「死の灰」だったのだろうか。

近くの防空壕(ごう)に向かうと、壕の前は、中に入りきれずにいる人であふれていた。人をかき分けて中に入ると、祖母たちがおり、みんな無事だった。

「助けて」「痛い」-。夜になると壕の中には、けが人たちの叫び声やうめき声が一晩中鳴り響いた。怖くてたまらず、姉や弟と抱き合っていたが、一睡もできなかった。

3日ぐらいたったころ、銭座町にいた母と姉が壕に来て、無事であることを喜びあった。

数日が過ぎ終戦を迎え、銭座町の家に戻ることにした。家に向かう途中、死後数日経過した赤ん坊を大事そうに抱え、たった今、息を引き取ったであろう女の人の死体を目にした。子どもながらに、悲しみや哀れみといった感情を通り越した言葉にできない複雑な思いを感じたことを覚えている。その光景は64年たった今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
<私の願い>
長崎と広島に原爆が投下されてからの64年間、被爆者をはじめ多くの人が核兵器廃絶を訴えてきた。しかし、核の削減は一向に進まず、むしろ状況は悪化しているように感じる。戦争も核兵器も人の命を奪うだけで、何一ついいことはない。戦争も核兵器もない真の平和が訪れることを望む。

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