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私の被爆ノート

10日間、懸命の救助

2009年10月15日 掲載
林 留吉(82) 林 留吉さん(82) 爆心地から3.4キロの飽の浦町4丁目(当時)で被爆 =五島市福江町=

当時18歳。三菱重工長崎造船所内で船の甲板を整備する作業をしていた。屋外で水を飲み、仕事に戻ろうとしたとき、空がピカッと光り、約10秒後に爆風に襲われ、5メートルほど吹き飛ばされた。20分ほど目が見えなくなり、頭が真っ白になった。

気付くと同僚が私のベルトを強く握り、離そうとしない。同僚の左足首から下の部分は消えていた。タオルで止血しようとしたが止まらず、石を傷口に当てタオルでしばって止めた。同僚とは、病院に搬送したのを最後に再会できていない。

連絡船で小ケ倉の寮まで戻ったが寮は倒壊。寮の食堂のおばさんとおじさんは下敷きで死亡していた。翌10日に造船所に行くと、20人ほどいた同僚の姿は3人だけ。皆、表情を失い黙っていた。 上司に「浦上に応援に行かないか」と言われ、11日に救助に向かったが、熱がすさまじいため稲佐橋を渡れなかった。何とか12日に渡った。辺り一面は焼け野原。遺体をえり分けて進んだ。

浜口に妹が住む寮があったが、寮は崩れ、妹の姿はなかった。妹は10日にけがを負い、諫早市の病院に運ばれていた。ほとんどの人は焼け焦げ、寮の近くでは18、19歳ぐらいの若い女性が死んでいた。目が飛び出た人もいた。生き残った人は「水、水」と求めていた。

その後の約10日間は、水筒を10個ほどぶらさげ、生存者に水をあげ続けた。水は破裂した水道管からくんだ。汚い水だったがやむを得なかった。重傷を負った人たちは「ありがとう」と手を合わせた。今でもその言葉が耳にこびり付いている。遺体を焼く作業も体験。建物のがれきを集めて焼いた。たまらなかった。

救助に取り組んだ約10日間のうち、5日間は何も食べられなかった。通り掛かりの人に大豆や肉が入った缶詰をもらったが、それが腐っていたのか吐いてしまった。「おれは絶対死なんぞ」と叫んだ。その後、同じ五島出身の夫婦に少しだけご飯を分けてもらった。命がつながった。
<私の願い>
日本はかつて「戦争の国」だった。戦争は、軍人だけでなく戦争に参加していない人にまで苦しみを負わせる。今後、世界がある限り、絶対にあってはならない。また、どの国も核兵器を使わないようにならなければならない。生まれてくる子どもたちのために。

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