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私の被爆ノート

日暮れまで弟捜す

2009年10月8日 掲載
高嶌ミヤ子(81) 高嶌ミヤ子さん(81) 爆心地から1.8キロの東北郷(現住吉町)で被爆 =大村市富の原1丁目=

当時17歳、長崎青年師範学校の2年生。住吉トンネル工場に学徒動員され、魚雷の部品作りをしていた。あの日は夜勤明けだった。住吉の寮で寝ていると、目の前が急に明るくなり、ものすごい音がして熱風が吹いた。窓ガラスがガチャガチャと鳴り、建物が揺れた。

空襲が来たと思い、外に出て周囲を見回すと辺りの家が激しく燃えていた。住吉神社の方に向かうと、赤黒い顔をし、髪は縮れ、腕から焼けただれた皮膚がぶら下がった人たちが、すさまじい形相で石段を駆け降りてきた。

ただ事ではないと引き返し、トンネル工場まで走った。工場には人がいなかったので、近くの山に向かうと、たくさんの人が避難していた。しばらくそこにいたが、長崎師範学校に通っていた2歳下の弟が気掛かりだったので、捜しに行くことにした。

町は黒焦げになった死体や、うめき声をあげたり、助けを求める人であふれていた。「ごめんなさい。ごめんなさい」-。何もできない無力感にさいなまれながら道なき道を歩き、日が暮れるまで弟を捜したが、見つけることはできなかった。

翌日の昼すぎ、諫早の学校から先生が来て、自宅に戻るよう指導された。波佐見の実家まで、途中にある救護所に立ち寄りながら帰ったが、弟はどこにもいなかった。その後も数日、母や姉たちと捜したが、見つけることはできなかった。

1週間くらいたったある日、学校から家に帰ると、背中の皮が焼けただれ、肉があらわになった弟がいた。大村の療養所にいるという情報を母が聞き付け、迎えに行ったようだった。療養所から連れて帰るなと止められるくらい重傷だったが、何より生きて戻ってきたことがうれしかった。

家族の必死の看病もあって、翌年の4月には学校に通えるほどに回復。しかし、9月になると急に寝込みがちになり、数日後に亡くなった。1週間後、しばらく寝込んでいた母も、弟の後を追うように亡くなった。
<私の願い>
オバマ米大統領の登場で核廃絶の流れが高まりつつある今こそ、世界中の人に被爆の実相を知ってもらいたい。犠牲者だけでなく、生き残った人も苦しんでいるという真の恐ろしさに気付いてほしい。共存共栄、感謝、自治-。互いが手を取り合い、戦争がない世の中になることを願う。

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