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私の被爆ノート

町に死体があふれる

2009年9月3日 掲載
山下 幸雄(81) 山下 幸雄さん(81) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =大村市小路口本町=

うだるような暑さだった。当時17歳。三菱兵器製作所茂里町工場の1階で、いつものように魚雷の機械取り付け作業をしていた。食堂からはよいにおいが漂い、昼食が待ち遠しい時間帯だった。

突然、稲妻のような「ピカピカッ」という強烈な閃光(せんこう)が襲った。建物が倒壊するごう音がだんだんと近づき、地響きとともに工場の天井が崩れてきた。とっさに組み立て途中の魚雷の中に飛び込んだ瞬間、記憶を失った。

どれくらいの時間が経過しただろうか。魚雷からはい出ると、頭からは血が流れ、洋服は真っ赤に染まっていることに気が付いた。がれきの山をかき分け、工場の門までたどり着いたが、憲兵から「救出に当たれ」と怒鳴られ、再び工場内に引き返した。

中には木材や鉄の棒に体を挟まれ「ウンウン」とうなることしかできない人、水を求め泣き叫ぶ人、体中血だらけでショック状態に陥り動けない人-。自らのけがも忘れ、必死で救出作業を続けた。日が傾きかけたころに、ようやく憲兵から帰ることを許された。

工場の敷地から出ると、顔の皮がはがれ泣くことも叫ぶこともできない人や男女の区別さえつかない死体で町はあふれていた。倒壊した家屋から聞こえるうめき声を耳に、急いで下宿していた竹の久保の叔母の家に向かったが、家は焼失し、煙だけが上がっていた。

近くの防空壕(ごう)に行くと叔母がおり、無事であることを喜び合った。飽の浦の造船所で働いていたいとこも無事だった。壕の中は蒸し暑かったので、その日は稲佐山の中腹で野宿した。中腹から見渡す限りが、火山でも見るかのように赤々と燃え続けていた。

翌日、叔母といとこの3人で、いたるところに転がる人の死体を横目に見ながら、実家のある外海の黒崎に歩いて向かった。夕方にようやく家に着き、「生きててよかった」と母と抱き合うと、涙が止めどなく流れてきた。
<私の願い>
一瞬にして町を破壊し、多くの人の命を奪った原爆の恐ろしい威力を知る限り、戦争や核兵器の存在を許すことはできない。この世界に、あのような悲劇が二度と起きることがないように、私たち被爆者は若い世代に体験を語り継いでいく義務があると思う。

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