午前11時前、母に宿題をするようせっつかれ、大浦東山町(当時)の自宅でしぶしぶと机に向かった。「ブーン」。空から飛行音が聞こえる。宿題をほったらかし、外に出て空を見上げた。B29だった。
9歳だった。B29はこれまで何度も見かけていてもう慣れっこ。むしろはしゃいでいた。すると浦上方面に落下傘が3個、きれいな三角をつくりゆっくり落ちてきた。
「わ~、落下傘、落下傘」と近所の子どもたちと一緒に眺めていると、近所のおばさんが怒りながら耳を引っ張り、自宅近くの防空壕(ごう)に放り込まれた。
壕内でうずくまっていると、突然、背中からものすごい熱気と強烈な光が襲った。その1~2秒後には猛烈な風。入り口付近にいた人は、壕の奥へ吹き飛ばされた。
怖くて怖くて、それから数時間は壕の中でおとなしくしていた。夕方になろうというころ、ようやく壕の外に出ると、浦上の空には、モクモクとした大きな丸い雲。辺りは金属を焼いたような異臭がたちこめていた。
自宅に戻ると母と姉2人がいた。戸や窓は吹き飛び、一面にガラスの破片とがれきが散乱していたが、3人にけがはなかった。いつもけんかばかりしている姉なのに、無事だったことがうれしくてたまらなかった。父は夜になって勤め先から戻ってきた。父も無事だった。
9日の夜から数日間、何をしていたのか記憶が定かではない。ただ12日は、時津に住む父の友人宅へ疎開しようと、朝早く家族5人で家を出た。爆心地付近の光景は筆舌尽くし難い。あちこちに死体が転がり、電車は丸焼け、馬は腹を大きく膨らませ死んでいた。その惨状にただただ、驚いていた。しかし、誰も言葉を発することなく、歩き続けた。
到着したころにはもう夕方になっていた。しばらく倉庫の2階を間借りして過ごした。B29が終戦後も頭上を低空飛行で飛び回り、私たちを脅かしていた。
<私の願い>
被爆者は遺伝子レベルで必ず異常が認められると発表した学者がいるが、それは、被爆者の不安をあおる行為。研究は研究として進める必要はあるが、人体への影響などを公にする際は、被爆者への十分な配慮が必要。被爆者の心を大切にしてほしい。