当時、西坂国民学校の4年生で10歳だった。
あの日は西坂町の自宅近くの路地で友人6、7人とおはじき遊びをしていた。「キーン」という飛行機の音が聞こえ、空を見上げた瞬間、強烈な白い閃光(せんこう)と、「ドン」という全身が浮き上がるほどのすさまじい音。無意識のうちに親指を耳の穴に入れ、残りの指と手のひらで目を覆い、地面に伏せていた。
「ガラガラ」という音とともに体の上に落ちてくるがれき。「死んだ」と思った。音がやみ、起き上がると辺りの家は倒壊。路地はがれきの山に変わっていた。最初に落ちてきた雨戸が体を覆っており、奇跡的にかすり傷ひとつなかった。遊んでいた友人は、もうどこかに逃げたようだった。
がれきをよけながら、何とか自宅にたどり着くと、家は半壊していたが、母も2歳上の姉も無事で、一緒に近くの防空壕(ごう)に向かった。壕には全身にガラス片が突き刺さり、血で真っ赤に染まった人たちが次々と運ばれてきた。
しばらくすると近くの家が燃え、壕に煙が入ってきたので、金比羅山の中腹に避難した。高射砲台から下ってきた10人ほどの兵士たちは皆、熱風にやられ、全身の皮膚が垂れ下がり、肉があらわになっており、その光景はまさに地獄絵図だった。
日が暮れ、浦上方面を見下ろすと、見渡す限り真っ赤な火の海に覆われており、恐怖で全身が震えた。それから、本河内の親せきに養女にいった12歳上の姉の家に向かい、近くの壕で一夜を過ごした。
翌日、自宅があった場所に戻り、仕事に出掛けていた父と合流した。三菱兵器製作所大橋工場に学徒動員されていた5歳上の兄を、父は必死で捜したが、行方は今も分かっていない。
しばらくして父は頻繁に疲れと胃の痛みを訴えるようになり、1948年に吐血し、死んだ。母も肝臓がんを患い66年に逝った。
優しかった両親と兄の命を奪った原爆を許すことはできない。
<私の願い>
原爆投下から64年がたつ今でも核の放棄は進んでいない。核兵器や戦争は人類を滅亡させるだけのもので何の意味もない。削減ではなく、一刻も早い完全放棄を望む。戦争を知らない政治家が、核武装などを唱えているが、考えを改めてほしい。ただ恒久平和を祈るだけである。