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私の被爆ノート

瀕死の友に気遣われ

2009年8月6日 掲載
山田 静江(78) 山田 静江さん(78) 爆心地から1.5キロの長崎市家野町で被爆 =長崎市三川町=

昼の支度のため台所へと立ち上がったとき、空に大きな光が見え、ものすごい音を聞いた。慌てて土間に身を伏せた。木造の家はべしゃりとつぶれたが、何とかがれきのすき間からはい出せた。

三菱長崎兵器製作所大橋工場に近い家野町の高台にあったわが家はすぐに火が付いた。近くの防空壕(ごう)へ急いだ。頭を負傷したが、再会した父に「体が動くんだからけが人を助けなさい」と厳しく励まされた。壕には100人近くもいて、重症の人も多かったのに、一晩中静かだった。女の子の「マリアさま」というか細い声が聞こえた。

翌朝、焼け落ちた家に戻った。幸い家族全員生きていた。私は空池にトタン板をかぶせ、寝床にした。純心高等女学校3年で6月から大橋工場に動員されていたが、9日は午後勤務で家にいた。午前勤務だった学友の多くが工場で亡くなった。

1年上の杉本艶子さんが防空壕に寝かされていると聞き、見舞った。杉本さんは私が来たと知ると「うつるけん来なさんな、しーちゃん」と。私は言葉もなく帰った。数日後彼女は亡くなったと聞いた。えたいの知れない症状に苦しみ、人にうつる病だと思ったのだろう。瀕死(ひんし)にあっても人を気遣う彼女の優しい言葉を思い出すと、今も胸が詰まる。

わが家から見渡せていた広大な大橋工場は、焼け野原に一変し、連日おびただしい数の遺体を火葬していた。14歳の私は毎晩その炎をぼーっと見詰めていた。

治療も受けられず、うじにたかられ死んでいった人、死んだあとも雨ざらしで何日もほっておかれた人-。覚えている光景すべてが悲しく、何の供養もできず生きてきたのが申し訳ない。亡くなった人たちはみんな天国に行ったと信じる。そうでないと気の毒すぎる。

何十年たとうが家野町には行けない。わが家があったあの丘の近くを通っただけで、平静でおれなくなる。だが、この年になり自分には伝える責任があるのではないかと思うようになり、話す決意をした。
<私の願い>
戦争で多くの人が亡くなり、大きな犠牲があって今の平和がある。それを忘れそうになってはいないか。人間の命はたった一つ。一度失ったら、それで終わる。命あることのありがたさを知ってほしい。

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