長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

100近くの遺体運び供養

2009年7月30日 掲載
前田 辰已(79) 前田 辰已さん(79) 爆心地から5.4キロの戸町2丁目で被爆 =長崎市八つ尾町=

当時15歳。三菱職工学校の学生だった。8月1日、実習の配属先が幸町工場から戸町トンネル内に造られた工場に変わり、そこで製造される部品の検査を任された。薄明かりの下でトンネル内を歩いている時だった。突然、ごう音が響き渡り、爆風で突き飛ばされた。壁に頭を打ち付け、気を失った。

「おい、起きろ」。上司に体を揺すられて目が覚めた。全身に激痛を感じ、何が起きたのか分からないまま外に出た。異様な風景に驚いた。浦上方向に巨木のような黒い雲が立ち上り、先が傘のように広がっていた。きのこ雲だった。工場内を整理した後、帰宅命令が出た。母と弟がいる東小島町の自宅へ急いだ。

南山手町の石だたみを走っている途中、赤れんが塀の脇道から出てきた大柄な男性とぶつかりそうになった。全身が真っ黒に焼けただれた男性に私は見下ろされ、恐怖でガタガタと震えた。「ごめんなさい」と言って、逃げるように去った。

丸山町の交番前では、警察官に引き留められ「危ないから側溝に隠れなさい」と怒鳴られた。船底型をした大きな側溝の中には30人くらいの避難者がいた。悲しみで、叫んだり、すすり泣いたりする声が響いた。自宅に戻り、母と弟が無事だったことにほっとした。

翌日、私は壊滅的な被害を受けた幸町工場に向かい、関係者の生存確認や遺品探しに追われた。8月15日。終戦を迎えると、救護所となった新興善小学校へ行くよう命じられた。そこには何体も遺体が並んでいた。

身元が確認された遺体を戸板の上に担架のようにして乗せ、火葬場がある大黒町まで運ぶのが私の仕事だった。火葬場では、遺体を重ねて焼いた。

合計で100体近くの遺体を運び、供養した。服を着てミイラ化していたり、ウジがわいている遺体からは独特のにおいがして、吐き気で何も食べる気がしなくなった。

1カ月ほどして運搬作業が一段落付いたころ、私はすっかりやせ細り、目元はくぼんでいた。職場に戻ると、友人や先輩は私の顔を見て冗談交じりに「おい、ドクロ。よく生きていたな」と話し掛けてきた。私は何も感じなかった。
<私の願い>
相手の意見に耳を傾け、互いのことを思いやる気持ちが大切。その基本的な気持ちが崩れ、自制心を失ったとき、人は愚かな戦争に向かっていく。戦争からは何も生まれないし、もはや戦争をする時代ではないことを世界が自覚するべきだと思う。

ページ上部へ