生まれてすぐに長崎市本原町2丁目(現・石神町)の養育院に預けられ、両親の顔を知らないまま生活していた。しかし、周りには友達がいたため、それなりに楽しい生活を送っていた。
あの日は、いつものように朝6時ごろ起きて、朝食まで友達と遊んでいた。朝食を終え、夏休みの宿題を友達と2人で済ませたあと、養育院のシスターが作っていたぞうりを作ることにした。
「ピカッ」と光ったかと思うと、建物の外に飛ばされていた。一緒に生活していたシスターが助けに来てくれたが、足の腱(けん)を切っていたため、歩くことができなかった。シスターから背負ってもらい、現在の三原町の方へと逃げて行った。
逃げる途中、子どもを捜して名前を叫ぶ人や、水を求める人と擦れ違った。まだ11歳で幼かったため、ただただ怖かった。山の上で何時間かシスターの帰りを待ち、ほかの子どもたちと一緒に山を下りて、防空壕(ごう)に行った。その後、一緒に遊んでいた友達とも合流できたが、生活していた養育院はなくなってしまったため、小屋を建てて生活していた。
夏休みが終わったが、それまで通っていた山里国民学校は燃えてしまったため、近くの西浦上国民学校に通うことになった。原爆のため、まともに歩くことができなくなり、激しい嘔吐(おうと)や髪の毛が抜け落ちたりするなどの後遺症にも苦しめられた。
そのため、学校ではいじめの標的になってしまい、「汚い」などの言葉を浴びせられた。腹は立ったが、言われるまま、ひたすら耐えた。そのころは、原爆から生き延びた友達もいたため、慰めてもらったりした。その慰めや優しさがあったから、生きていけた。
養育院を出た後は、恩返しの意味も込めて、お世話になった養育院で運営の手伝いをしていた。現在は、自分やほかの被爆者らの経験を上演する「被爆劇」に取り組み、平和の大切さを訴えている。
<私の願い>
被爆していなかったら、こんな状況になっていなかったと思うと悔しいし、原爆が本当に憎く思える。いま子どもたちを見ると「この子たちは、何事もなく健康に育ってほしい」と思う。私たちの体験をしっかり次世代に伝え、二度と戦争が起きることのない、平和な世界になればと願う。