原爆投下で家が焼け落ち、住む家がなくなった。一家の大黒柱だった父は大けがをして寝たきりとなり、収入も途絶えた。原爆投下後、これからの生活を考え、途方に暮れてしまった。
西坂国民学校高等科の2年生で13歳。両親と3人暮らしだった。学校とは名ばかりで、ほとんどの人は学徒動員か防空壕(ごう)掘りをしていた。
大黒町にあった自宅の2階で母が繕い物をしているところを眺めていた。すると、飛行機の音が聞こえたので逃げようと思い、1階に下りる途中で突然、母とともに家の土壁の下敷きになった。どのくらいの時間そのままだったか分からないが、わずかなすき間を見つけ急いではい出た。幸い2人ともけがはなかった。
そこからはただただ、家の近くにあった防空壕を目指した。しかしそこはたくさんの人であふれ返り、けがをしていない者が中に入ることはできなかった。高台に上って辺りを見回すと、長崎駅が燃えていた。付近の家もまともに立っているものは一軒もなかった。
夜になって、父が担架で防空壕に運ばれてきた。勤務中に爆風で飛ばされて会社のドアの下敷きになったらしい。体中にガラスの破片が突き刺さり、重傷を負っていた。話もできない状態だった。
数日間は防空壕の外の道端で寝た。夜でも付近の家などが燃えていて、明るかった。着の身着のまま出てきたため、汚れたままの姿で過ごした。頭はシラミがわいてかゆかった。
あの日から約4年間、住む場所を転々とした。中でも長崎市内の畑に立っていた小屋には長く住んだ。そこは3畳ほどの広さで、電気も通っていなかった。家の収入も少なく、苦しい生活だった。畑の作物がなくなると「あの人たちが盗んだ」との疑いも掛けられた。
その後、同市内の市営住宅に入ることができた。部屋に入り、電気がついた瞬間、本当にうれしかった。
<私の願い>
戦争がなかったとしたら、わたしの人生は変わっていたかもしれない。あの体験は体が覚えている。軍国主義の下で覚えさせられた教育勅語や教科書の内容は今でも暗唱できるほど。
戦争が一番に憎い。歴史は繰り返すというけれど、戦争は二度と起こしてはならない。