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私の被爆ノート

半壊自宅で姉が出産

2009年7月2日 掲載
平田 照子(84) 平田 照子さん(84) 爆心地から3.5キロの長崎市新地町で被爆 =長崎市住吉町=

「空襲がなくてよかったね」。防空壕(ごう)から長崎市新地町の事務所に戻り、隣に座る同僚とそんな話をしているときだった。稲妻のような光が走り、同時にすさまじい爆風。とっさに両手で目と耳を押さえ机の下に潜りこんだ。当時20歳。川南造船所配給本部に勤務。てっきり事務所の庭に爆弾が落ちたと思った。

しばらくして机の下からはい出ると、土や砂ぼこりが部屋中に舞っていた。「どこおっと」と同僚に声を掛けると足元から声。無事だった。2人、手をつなぎ外へ出て、それぞれ自宅を目指した。

船で自宅のある稲佐方面に渡ろうと大波止の桟橋へ。だが、桟橋に行くと瀬渡し船には既に大勢の人が乗っていて、これ以上乗れそうにない。

突然、爆弾のような大きな音が聞こえた。「機銃が来るぞっ」と誰かが大声を上げた。船に乗っていた5人ぐらいが海に飛び込んだ。私は慌てて桟橋から橋を渡って待合室に逃げ込んだ。結局、銃弾はなかった。

徒歩で長崎駅付近まで行くとその先は火の海。仕方なく西山方面へ迂回(うかい)し、山越えした後、稲佐橋を渡り自宅へ向かった。やっとの思いで着いた自宅は半壊し、自宅の向かいにある父親が営む時計店は跡形もない。両親の姿はなく、頭は真っ白になった。右往左往しているとある女性が、両親は防空壕にいることを教えてくれた。

両親は壕の入り口にいた。時計店にいた父親は店内に並ぶ時計のガラスで頭を切り、包帯がグルグル巻き。包帯は真っ赤だった。母親は足の甲にガラスがたくさん刺さり、歩くのもままならない状態だった。臨月の25歳の姉は壕の奥で休んでいた。その日は壕内に泊まった。

数日間は壕で生活した。12日ごろから姉が「生まれそう」というので、父親と助産師を探しに出た。片っ端から人に尋ね歩きようやく見つかった。

13日、姉は半壊した自宅の押し入れで男の子を出産した。暗い心に少しだけ、光が差した。
<私の願い>
核兵器さえなければこんな悲惨なことにはならなかった。核で大勢の人が苦しめられた。核兵器がある限り、平和な世界はできないだろう。同じ原爆に遭った人でも、それぞれ体験は違う。若い人には、いろんな体験を聞いて被爆者の平和への思いを継承し、平和で核なき世界を実現してほしい。

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