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私の被爆ノート

教室はまるで生き地獄

2009年6月25日 掲載
平田 弘(83) 平田 弘さん(83) 早岐国民学校で被爆者を搬送し被爆 =佐世保市重尾町=

8月9日は、かんかん照りのいい天気だった。農作業の後、佐世保市重尾町の自宅庭で、所属していた警防団の先輩から頼まれた自転車のパンク修理をしていた。

仕上げた後、先輩が帰り始めると辺りがピカッと光り、何秒かして「ドーン」と音がした。1週間ほど前、川棚町に爆弾が落とされたので「また川棚に落ちたとじゃろか」と先輩と話した。大村の方にきのこ雲が見えた。

当時原爆の存在は知らなかった。その後、軍から警防団を通して「敵は新型爆弾を使った。今までのような避難方法ではいけない。小さい防空壕(ごう)ではだめだ」と伝えられた。

10日午後1時ごろ、「早岐国民学校(現・市立早岐小)に行け」と指示があった。長崎から汽車で早岐駅まで運ばれ、早岐国民学校に収容された負傷者を、2キロほど離れた高台にある佐世保海軍共済病院(現・佐世保共済病院)早岐分院に搬送する仕事を任された。

学校の教室の床には50人ほどがそのまま寝かされていた。かわいそうに、死んだ子どもはほったらかしにされていた。体中にガラス片が刺さった人、傷口からうじ虫がわいた人、服がぼろぼろになった人…。生き地獄だった。軍は「日本は戦争に勝つ」と言っていたが、本当に勝てるんだろうかと感じた。

遠い佐世保まで運ばれてくるぐらいだから軽傷者ばかりだったはずだが、ほとんど死んでしまった。竹2本に荒縄を編んで作った担架で生存者を運んだ。手袋はなかったから、皮膚が焼けただれた人も直接手で持って乗せた。触ると皮膚がぺらっとはがれる人もいた。人間の焼けた嫌なにおいがした。「動かしてくれるな」「水をくれ」とうめいていた。水をやれば死ぬと思い、やらなかった。

2人一組で運んだ。担架の後ろにいると負傷者からにおいが流れてくるので、前の人と「おまえが前に行け」と言い合っていた。夕方まで病院間を10往復ぐらいした。
(佐世保)

<私の願い>
原爆投下を通して、戦争が本当に嫌になった。人々は殺し合いではなく、話し合いを大切にしないといけない。被爆の実相を子の代、孫の代に伝えていくことも大切。オバマ米大統領が「核なき世界」の実現を目指しているが、米国は原爆を使った以上、核兵器廃絶も率先して進めてほしい。

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