8月が近づくと、いまだに「あの日」の情景が浮かび上がってくる。死体があちらこちらに横たわり、川のほとりでは焼けただれた人が手で水をすくって飲んでいた。長崎の町はまるで生き地獄のようだった。
暑い日だった。いつものように友人と動員先の工場に向かっていた。その日は朝から警戒警報が発令され、友人と「今日は家に戻ったほうがいいね」。そんな会話をしながら途中で引き返した。家に帰って昼食の準備に取り掛かっていた時だった。ピカッと鋭く光ったかと思った瞬間、すごい勢いの爆風。爆心地から離れているとはいえ、家の中はガラスの破片が飛び散り、たんすは倒れ、一瞬で足の踏み場もないほどにグチャグチャになった。
その日は両親と弟と防空壕(ごう)で夜を過ごした。壕の中では「もう一度長崎に落とされたら町は全滅する」-そんな会話が飛び交い「いつかわたしも死ぬのかもしれない」と思っていた。夜になっても、県庁は真っ赤な炎を上げ、燃えていた。
変わり果てた長崎の町を見たのは原爆投下から2日後。家族で親せきがいる小長井町に疎開する日だった。2日たってもまだ町には火がくすぶっていた。稲佐橋のあたりでは、馬が立ったまま死んでいたり、体中が焼けただれている人が水を求めていたりと、悲惨な光景だった。
歩いて飽の浦から道ノ尾駅へ。その日の服装は長袖長ズボンに防空ずきんをかぶっていた。どう考えても暑いはずなのに、暑いとか、歩き疲れたという感情は思い出せない。駅周辺には、遺体がずらりと並べられ、異様なにおいが漂っていた。それなのに何とも感じなかった。それほど当時のわたしは一秒でも早く小長井に向かうことで必死だったのだろう。
15日。両親らは地域の会長の家に集められ、わたしは親せきの家で終戦を告げるラジオを聞いた。わたしはずっと「日本は神の国。負けるはずがない」と思っていた。しばらく信じられなかった。
<私の願い>
核廃絶、戦争のない平和な世界を望んでいる。北朝鮮のミサイル発射には憤りを感じる。核兵器のない平和な世界を願っているのに、無視され続けている。あんな悲惨な思いを孫の世代にさせたくない。また同じようなことがあれば、戦争の犠牲者が報われない。