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私の被爆ノート

避難の道中は「地獄」

2009年6月11日 掲載
福田 英子(88) 福田 英子さん(88) 爆心地から2.0キロの長崎市稲佐町2丁目(現曙町)で被爆 =西彼時津町日並郷=

当時24歳。夫が出征し、1歳半の長女とともに夫の母方で、夫の妹2人とその子どもたち、夫の母の計8人で暮らしていた。7月末から空襲が続き、近くの防空壕(ごう)で近所の人たちと身を寄せ合う毎日だった。

9日の朝、空襲警報がようやく解除となり、午前10時ごろに帰宅。長女が汗びっしょりになっていたので、私は湯をわかし、1階の階段近くで長女の体をふいていた。

「天草上空をB29が通過」というラジオからの声。グオングオンという飛行機の音が聞こえたかと思った瞬間、ガッというすさまじい衝撃とともに天井や壁が崩れ落ちてきた。私はとっさに長女を抱いて、うずくまった。2階にいた下の妹は爆風で飛んできたガラス戸で右腕をけがしたらしく、血が滴っていた。私も右耳の鼓膜をやられていたが、妹の治療をと近くに設けられた救護所へと向かった。

救護所には体中にガラスが刺さった人や真っ黒に焼けただれた人などであふれ返っていた。妹の傷口は深かったが、医者はほかの人たちの対応に追われ、それどころではない。消毒薬を付けてもらうのがやっとだった。

外はがれきの山で、近くでは火災も起きているようだった。「とにかく逃げよう」と稲佐山の中腹に家族全員で避難することになった。中腹を目指す道中、高齢の女性が目や口から血を流し、あおむけで道端に倒れていた。近くで女性らが「おばあちゃん、おばあちゃん」と泣き叫んでいる。「ここは地獄か」との思いが込み上がった。

避難した中腹の雑木林には何十人もの人たちが逃げ込んでいた。市の中心部の方を見ると、県庁の屋上が燃えだし、市役所方面へと火の手が広がっていく。雑木林で一晩眠れぬ夜を過ごした。

翌朝山を下りたが、自宅近くの防空壕はけが人でいっぱいで、私たちは雨戸の板を拾ってきて外で寝ていた。食べるものもなく、こじきのような生活が1週間ほど続いた。原子爆弾のことを知ったのはしばらくたってから。とにかく生きることに必死だった。
(西彼中央)

<私の願い>
戦争というものを誰が起こしたか知らないが、どれだけの尊い命が失われたか。核兵器が使用されれば、逃げることはできない。戦争や原爆を知らない世代が増えているが、明治時代以降の歴史教育に力を入れ、若い人たちには戦争について真剣に考えてほしい。

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