長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

暗闇で同級生の名叫ぶ

2009年6月4日 掲載
桑崎 英子(79) 桑崎 英子さん(79) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =長崎市上小島4丁目=

当時15歳。県立長崎高等女学校の4年生だった。学徒動員として三菱兵器製作所茂里町工場で、魚雷に付ける深度目盛りを作っていた。

あの日、工場の2階で同級生の堀さんと宝亀さんと席を並べて作業をしていた。「もうすぐ昼だから、お茶の用意ばせんばね」と2人に話し掛けた直後だった。黄色とも緑とも何とも言えない閃光(せんこう)が後ろの窓から差し込んだ。

しばらくして目が覚めた。床にたたきつけられていた。真っ暗闇で独りぼっちの怖さに耐えきれず、同級生の名前を叫び続けた。堀さんが床をはうように寄ってきたが宝亀さんの姿はなかった。

堀さんと工場を出て、長崎駅方向に向かった。敵機が低空飛行で飛んでいる。慌てて近くの防空壕(ごう)に飛び込んだ。背中がやけに痛い。堀さんに見てもらうと「黒焦げで、背中とひじの骨が見えている」と教えてくれた。どうすることもできずに我慢した。

壕を出て御船蔵町に差しかかったとき、また敵機が飛んできた。2人で近くの壕に入ると、何人かの捕虜の米兵がいた。怖いので出ようとしたが、入り口にいた憲兵から「危ないからだめだ」と言われ、仕方なく残った。

暑さでのどが渇く。黒人の米兵に水をせがむと、缶に水を入れ飲ませてくれた。憲兵からがけを登って立山方向に通じる道から逃げるよう指示された。そこでも米兵は近くにあった2本のはしごをつなぎ合わせ、がけに立て掛けた。私たちを背負い、はしごを上って道路まで運んでくれた。米兵の気配りに、私たちは敵味方関係なく「ありがとう」と感謝の気持ちでいっぱいだった。浦上方面から逃げてくるたくさんの人の列に加わった。全身裸で血が噴き出している人、皮がはがれ、ぶら下がったままの人。歩き進むさまは、まさに地獄絵の様子だった。

11日に父と兄に再会。姉が疎開していた佐賀県有田町の家に向かった。原因不明の鼻血や歯茎からの出血に悩まされ、3日間、40度近い高熱に悩まされた。
<私の願い>
世界的な核兵器廃絶への機運の高まりの中、先日、北朝鮮が核実験を実施し、怒りが込み上げた。原爆で親友を亡くした。あんなに恐ろしいことは二度と起こってほしくない。戦争と核兵器のない、平和な世界になるよう祈っている。

ページ上部へ