当時、小学三年生。八歳だった。自宅は長崎港を望む高台で、現在の長崎市立西坂小辺りにあった。弟、妹らと近所で遊んでいる最中、「空襲」を告げるサイレンが鳴り響いた。瞬間的に弟の手を引っ張り、家の中に転がり込んだ。
閃光(せんこう)、爆風、ごう音…。しかし、詳細はよく覚えていない。記憶にあるのは真夏の昼間、一転して真っ暗闇になっていたこと。そして「急いで逃げるよ」と母の声。弟と妹と計四人で一緒に山の上にある防空壕(ごう)に向かって走った。振り返ると、自宅が燃えていた。
恐ろしいとか、きついとか、そういう感覚は皆無だった。「一体、何が起きたのか。さっぱり分からん」。そういう思いにとらわれていた。
飲まず食わずのまま、防空壕で一夜を明かした。そこはどんな状況だったのか、どんな気持ちを抱いたのか-ほとんど覚えていない。とにかく気が動転し、冷静ではいられなかったはずだ。
翌十日朝。諫早に住んでいた祖父が自転車を引いて、壕にやって来た。捜し回った揚げ句、ようやくたどり着いたのだろう。祖父はまず、私と弟を連れて諫早に向かった。祖父が引く自転車の荷台に弟が乗り、私は祖父に付いてひたすら歩いた。ルートは覚えていないが、長崎を抜ける道中、家という家はなくなり、がれき状態。たくさんの遺体が道なき道を埋めていた。やはり、怖さは感じなかったように思う。ただ、焼け焦げた遺体が発する異臭だけは、今でも感覚として残っている。唯一の「原爆の記憶」かもしれない。
数日後、母が妹三人を連れ、諫早に来た。原爆投下時、現在の三菱重工長崎造船所で働いていた父を捜し、安否を確認していたという。
「お父さんは十日に亡くなったとよ」。母はそう言った。おやじが死んだ-。そう聞いても、悲しいという感覚が全くわき上がってこなかった。なぜか、涙が出てこなかった。
(諫早)
<私の願い>
世の中が平和で、穏便であってくれるのが一番いい。核兵器や戦争がないというだけで、平和だとはいえないような気がする。親子のつながりが薄れ、自分さえよければ、という風潮がはびこっている昨今、家族のきずながしっかりしていることもまた平和の在り方だと思う。