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私の被爆ノート

死体であふれる浦上川

2009年5月21日 掲載
木村 重喜(79) 木村 重喜さん(79) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =長崎市脇岬町=

赤々と燃える町、死体であふれる浦上川-。あの日、この目で見た惨状は今でも忘れることができない。言葉で表現するのは難しいが、ありのままを伝え、この世の中に核兵器はいらない、と訴えたい。

当時十五歳。脇岬尋常高等小(現・脇岬小)を卒業後、三菱長崎兵器製作所大橋工場で働き、魚雷を造っていた。

九日は朝から、いつも通り作業をしていた。突然、大きな雷のような光が工場内をパパーッと走り、そのまま気絶した。

しばらくして目が覚めると、屋根のスレートが崩れ落ち、下敷きになっていた。脇岬村(当時)の実家に帰ろうとがれきからはい出した。

頭から出血し、左腕にはガラス片が刺さっていたが、けがは軽かった。しかし、体調は優れず、眠たかった。放射能の影響だったのだろうか。

長崎師範学校(現・長崎大教育学部)付近の防空壕(ごう)でしばらく休んだ。女学生らしき人から「具合の悪かとね」と声を掛けられ、丸薬の仁丹を数粒飲ませてもらった。親切な人だった。少し気分が良くなった。

住吉町にあったトンネル工場まで歩き、またしばらく休んだ。それからは国鉄の線路を伝って実家を目指した。

途中、女性があおむけになって倒れていた。全身の皮膚がはがれて赤くただれ、口を開いたまま息絶えていた。むごたらしい姿は今も目に焼きついて離れない。

大橋町まで歩くと、一面火の海。家々が赤く燃えていた。それを避けようと浦上川の中を歩いた。川は人と馬の死骸(しがい)でいっぱいだった。川べりからは黒焦げになった人の「水を飲ませてくれ」という声が聞こえた。梁川橋は血だらけの死体や黒焦げの死体が折り重なっていた。踏まないように気を付けながら歩いた。

その日は旭町にあった下宿の近くの防空壕で一夜を過ごした。翌日、江川町まで船で渡り、ひたすら歩いた。十一日の朝、ようやく自宅にたどり着いた。
<私の願い>
原爆の恐ろしさは実際に遭ったものでないと分からない。惨状は二度と見たくない。戦争や原爆の苦しみを経験するのは自分たちだけでたくさんだ。戦争と核兵器がなくなり、世界が平和になることを祈っている。将来を担う子どもたち、孫たちのためにも、そう祈るほかない。

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