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私の被爆ノート

毎日のように死を目に

2009年5月14日 掲載
高見多美治(73) 高見多美治さん(73) 爆心地から4キロの三ツ山町で被爆 =長崎市三ツ山町=

当時、私は西浦上国民学校(現在市立西浦上小)の三年生だった。

朝から友人と浦上川の上流へ行き、川遊びをしていた。突然、頭上で「ブーン」という重低音が聞こえ、空を見るとB29が市街地へ向かって飛んでいた。空襲警報が鳴らないので「おかしいな」と疑問に感じ、ぬれた体をふく間もなく急いで服を着て自宅へ戻った。

田んぼの脇を走っている途中、突然、閃光(せんこう)で目の前が真っ白になった。反射的に山の茂みに飛び込むと「ドーン」という爆音が響き、爆風が巻き起こった。

気付くと、辺りの山の木々が傾いていた。けがはなく、何が起こったのか確かめようと、近くの小高い場所へ上った。眼下にはわらぶき屋根が吹き飛んだ家々が見えた。

一時的に防空壕(ごう)に避難した。しばらくして外へ出ると、上半身がやけどで腫れ上がった三十代ぐらいの男性が三ツ山教会の階段を駆け上る姿が見えた。体の皮膚にシャツがくっついた状態でただれ、顔や腕の皮も今にもはがれ落ちそうだった。

後日、両親から聞いた話では、男性は大橋町近くの川で馬を洗っている最中に被爆。下半身は川に入って無事だったが、上半身は熱線で大やけどを負った。神父の元で最後の祈りをささげ翌日、亡くなったという。

自宅にいた母と姉妹、伯母は無事だった。だが、出島の倉庫に農作業の肥料を取りに行った父の安否が分からなかった。母と伯母が父を捜しに行ったが、山里小の辺りから火の海に阻まれて進むことができず、夕方に戻ってきた。

私の家は広かったので、負傷者やシスターが続々と集まってきた。けが人の手当てや食べ物を分けるために走り回った。それぞれが生き延びるために必死だった。日没後、父も無事に戻ってきたが、家族で喜びを分かち合う余裕はなかった。

翌日以降も行き場を失った人々が集まり、多いときは二百人ぐらいになった。それから、毎日のように人が死んでいく姿を目にした。
<私の願い>
原子爆弾は破壊力だけでなく、土地と人間の体をむしばんでいく恐ろしい兵器。世界が再び原爆を使うようなことがあっては絶対にならない。平和であることの大切さは戦争を体験してみないと分かりにくい面はある。だからこそ、世界の多くの人が被爆者の声に耳を傾けてほしい。

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