当時十六歳。県立長崎高等女学校の四年生だった私は、学徒動員で三菱兵器製作所茂里町工場の二階で魚雷部品の製造に携わっていた。
あの日は警戒警報が鳴り、工場の近くの防空壕(ごう)に避難していた。解除されたので工場に戻り、いつもと同じように働いていた。飛行機の音が聞こえたと思った瞬間、記憶がなくなった。気付いた時には、梁(はり)の下敷きになっていた。必死になって抜け出して上を見ると、工場の天井は崩れ、空が見えた。「空襲にやられたんだな」と認識した。
辺りは、がれきや柱などが折り重なり、床は所々燃えていた。一階に下りると、血だらけの人たちがわれ先にと、外へ向かって走っていた。私も必死で外に出た。そこで初めて顔や頭、腕などにガラス片が刺さって血が流れ、シャツが真っ赤に染まり、もんぺも破れ、血と油まみれになっていることに気付いた。
工場から出てきた同級生二人と「生きててよかった。一緒に帰ろう」と言って二、三歩歩くと、急におなかが苦しくなり動けなくなった。しばらくうずくまっていると、見知らぬ中年の男性が私をおぶり、新興善国民学校の救護所まで運んでくれた。治療を受け、校庭の小屋で休んでいると、全身の皮がただれ、真っ赤な肉があらわになった男の人が「水、水」と叫びながら、のたうち回っていた。飲ませてあげたいと思ったが、どうすることもできなかった。
夕方、ようやく父が迎えに来て東浜町(現浜町)の家に帰った。家具が倒れ、窓ガラスも粉々になっていたが、母も妹も姉も無事だった。
家でも、おなかが苦しくて食べることができず、吐き続けた。頭を洗えば髪は抜け、ガラス片が落ちた。姉の必死の看病もあり、秋には何とか学校に行けるようになった。
一緒に逃げた同級生二人は若くして亡くなったと聞いた。当時の生活があまりにも現実と懸け離れているので、今でも本当に起こったことなんだろうかと思うほどである。
<私の願い>
原爆がもたらした悲惨な実相は世界に発信されているのに、核兵器は今も存在する。どんな気持ちで核兵器を造り、保有しているのか理解できない。被爆国は日本だけで終わりにしてほしい。戦争を知らない若い人にも、被爆の実相や戦争に関心を持ってもらい、平和について考えてほしい。