八月九日、長崎市に原爆が投下されたとき、当時住んでいた佐世保市崎岡町でも爆音と光のようなものを感じた。午後には新型爆弾が長崎市に落とされたことを聞いた。
当時、佐世保市早岐警防団第五分団に所属。翌十日、分団長から「新型爆弾で被災した人たちが早岐駅に来るので救護運搬の応援出動をするように」との命令があった。
正午すぎ、被爆者が乗った汽車が駅に到着。確か五両編成だった。大村駅や川棚駅でも被爆者は下車しており、各車両には十人前後が残っていた。私たちは車内にいた人たちを運び出し、担架や戸板に乗せ、線路伝いに約六百メートル離れた早岐国民学校まで「がまだせ(頑張れ)、がまだせ」と励ましながら運んだ。
被爆者はやけどで水膨れがひどく、手を引っ張ると皮膚だけがめくれることもあった。服はぼろぼろで、男女の区別がやっとつくぐらい。ガラスが顔や肩など体のあちこちに刺さったままの人、髪の毛が左右どちらかだけ燃えたようになっている人…。
原爆の放射能のことが知られておらず、被爆した人たちを運搬や看護した私たちも被爆した。
早岐国民学校ではむしろ、わらを校舎の中に敷き、その上に寝せた。軍医や地元の医者のほか、看護師二十人くらいも集められ、治療に当たっていた。やけどに塗るための種油を近くの精油所へ買いに行くように言われ、仲間と一斗缶を買いに行った。
薬や油を塗った後、包帯でぐるぐる巻きになった人たちが「水をくれ」と言っていたが、医者からは「水を与えるのは良くない」と言われていたので、飲ませることができなかった。
校舎の中で息を引き取った人や運搬途中で亡くなった人もいた。陣の内町にあった通称「徳丸墓地」の横にあった火葬場に運ばれていた。
十一日も同校に行き、校舎内で被爆者を移動させるのを手伝ったりした。
六十年以上たったが、地獄のような光景は忘れられない。
(佐世保)
<私の願い>
投下から六十年以上経過した今でも体の不調による不安におびえ、いつ訪れるか分からない死と直面しているのが被爆者だ。都市を壊滅し、人類を滅亡に導く原爆は廃絶しなくてはならない。オバマ大統領が、唯一の核兵器使用国とし、道義的責任に言及したことは廃絶への大きな前進と思う。