蒲 ミドリ
蒲 ミドリ(79)
蒲 ミドリさん(79) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =長崎市上戸町1丁目=

私の被爆ノート

火の海を急いで逃げ出す

2009年4月9日 掲載
蒲 ミドリ
蒲 ミドリ(79) 蒲 ミドリさん(79) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =長崎市上戸町1丁目=

原爆投下後、被爆した勤務場所の三菱兵器製作所茂里町工場付近にはしばらく行かなかった。思い出したくない記憶が多々あり、近づきたくなかった。

当時は、県立長崎高等女学校の三年生で十五歳。工場に学徒動員で働いていた。広い工場では約百人が勤務しており、その中で魚雷製作の一部を担当していた。

あの日は空襲警報が鳴るたびに少し離れた防空壕(ごう)まで、工場の従業員と一緒に走っていった。そんなことを何度か繰り返し、工場に戻って作業をしていると、いきなり目の前が何も見えなくなった。後で気付いたが、失神していた。目が覚めた時は何が起きたか分からなかった。

工場内ではガスボンベなど大きな機材の下敷きになった人が多くいたが、鉄骨のすき間に入り込んでいて何とか助かった。しばらくして、辺り一面火の海になったため急いで友人数人と工場を逃げ出した。

外に出て、浦上川で見た光景は「無残」の一言。川を埋め尽くすように黒く焦げたものが流れてきたが、よく見ると人間だった。数えきれないほどの死体が折り重なるようにして浮かんでいた。今でも浦上川を見るとその光景を思い出してしまい、胸が痛む。

女学校があった西山方面に避難した。高台から長崎市内を見ると、至るところで火の手が上がっていて驚いた。はるか遠くまで焼け野原になっていた街並みを見て、初めて大きな爆弾が落ちたのだと分かった。こんなに威力がある爆弾があるものなのかと思った。

避難の際、額にけがをして血のりが左目に入り数日は左目がよく見えなかったことを覚えている。

体中のあちこちが痛んだが、親が心配していると思い一人家路を急いだ。後で聞くと「浦上にいた人たちは全滅状態」との話が自宅の近所でも広まっていた。家に着いた時は両親をはじめ、近所の人たちが「ミドリさん、生きていたの」と驚いた。
<私の願い>
高校生による一万人署名活動など、若い人の取り組みは大切。ぜひとも平和への気持ちを失わずに、若い世代からその機運を高めていってほしい。 核廃絶にはもろ手を挙げて賛同する。わたしが体験したような悲惨なことは二度と起こってほしくない。

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