「ザザー」「ドカーン」-。八月一日。学徒動員先から銭座町の自宅へ帰る途中の出来事だった。敵機の空襲に遭い、近くの防空壕(ごう)に飛び込んだ。壕の中で震えながらじっと敵機が去るのを待った。敵機が通過し、自宅に戻ると家の屋根には三カ所の大穴。翌二日に小学生の弟と二人で時津村(当時)の農家へ疎開することになった。当時十五歳だった。
九日。時津の農家で入手したカボチャやジャガイモなどを母に持っていこうと、朝から弟と二人で長崎へ向かった。道ノ尾駅近くに来たとき、上空に爆音をうならせながら飛行する敵機の姿。急いで道路の側溝に飛び込み身を伏せたその時だった。
ピカッとオレンジ色のまばゆい閃光(せんこう)が走り、熱風が全身を覆った。そして大きなきのこ雲がムクムクと立ち現れ、大きく広がっていく。「熱い。一体何が起こったのだろう」
自宅に帰りたいと思ったが、爆心地側から歩いてくる血みどろの負傷者は、住吉、大橋方面は火の海でとても通過できないという。仕方なく時津の疎開先へ逆戻りし、一晩中、黒煙と赤く燃え盛る火を眺め、母と十七歳の兄の無事を祈った。
翌十日早朝、警防団の連絡で、母が負傷したものの兄に助けられ、ゆっくり時津へ向かっているということが分かった。「よかった」。ほっとして、神仏に感謝した。
午後九時すぎに、母と兄が到着。母は右目の下や右腕にガラス片で切ったけがで血のりがべっとり。兄も全身を打撲している様子だったが、母ほどひどいけがはなかった。
母と兄は、被爆直後の様子と時津までの道中の光景を語った。爆風で自宅は倒壊。二人とも倒れた家の下敷きになったが、先に兄がはい出て母を引きずり出した。その後、私たちの待つ時津までひたすら歩いた。たくさんの死体、やけどでうめく人、水を求め叫ぶ人…。その光景は、とても悲惨でまさに地獄だったという。
<私の願い>
人が人を殺す戦争は、何が何でも起こしてはならない。戦争が始まると、女性、子どもなど弱い人が一番ひどい目に遭うことは間違いない。特に、戦時中の食料事情は悲惨で、着る物も履く物もなかった。人の心も荒廃する。人間が、核兵器を造るような技術と資金を持っているならば、その技術と資金は平和のために生かすべきだと思う。