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私の被爆ノート

がれきをはい出し避難

2009年3月19日 掲載
山口 健行(68) 山口 健行さん(68) 爆心地から2.0キロの本原町3丁目(当時)で被爆 =長崎市平和町=

「ダダダダ…!」「バーン!」。当時五歳の私は連日の空襲におびえていた。浦上天主堂の近くに自宅があったが、戦争の激化と母が七月に妹を出産したのに伴い、本原町三丁目(当時)の小さなバラック小屋に疎開していた。

幼いころの断片的な記憶なので、はっきりと思い出せないが、九日は普段通りの朝を迎えたと思う。みんなで朝食を取った後、父は三菱長崎兵器製作所大橋工場に出勤。私は母と姉、二人の妹と身を寄せ合って過ごしていた。

突然、近くに爆弾が落ちたような音がした。勢いよく小屋がつぶれ、下敷きになった。幸い全員無事だった。がれきをはい出した。生まれたばかりの妹をみんなで気遣いながら山道を登り、防空壕(ごう)に避難した。何が起きたのか、状況は理解できなかった。父の安否が気になった。

壕の中は逃げてきた人でいっぱいだった。服がぼろぼろに焼け落ち、けがをした人が次々と入ってきた。赤ちゃんがいたので、少しでも落ち着いた場所に行こうと山を越え、三川町の知人の家に行った。こちらも原爆の被害を受けていた。途中、飛行機が何度も飛来した。そのたびに不安が押し寄せた。

翌日、父と再会した。頭に包帯を巻き、つえをついていたが、元気そうだった。みんなで喜び合った。一家を支える父の存在は、幼い私にとって何よりも心強かった。本当にうれしかった。

戦後は貧しく、一日一日を暮らすので精いっぱいだった。食料不足に苦しんだが、家族で協力し合いながら生活した。

しかし、原爆は掛け替えのない家族の命を奪った。一番下の妹は二十歳の時に白血病を患った。その後結婚し、息子を出産したが、入退院を繰り返し、闘病生活の末に亡くなった。二十五歳だった。父はがんのため六十三歳で亡くなった。被爆実態の調査に役立ててもらおうとABCC(原爆傷害調査委員会)で遺体を解剖した。家族の死はとてもつらかった。
<私の願い>
平和な世界を実現するためには、核兵器廃絶が欠かせない条件だ。それを訴え続けたい。しかし、核兵器廃絶は、被爆地である長崎と広島だけの問題ではない。国民一人一人が自分の問題として引き寄せて考えてほしい。次世代を担う子どもたちは、戦争のない明るい世の中をつくってほしい。

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