当時七歳。小高い森の中腹にある自宅そばで十七歳のいとこと防空壕(ごう)を掘っていた。突然、爆音と地鳴りがして息ができないほどの熱気が入り込んだ。いとこは私に「ここにいなさい」と念を押し、外へ出て行った。
しばらくして外から私の名前を叫ぶ声がした。とっさに壕を出ると、大橋の三菱兵器工場で働いていた父が立っていた。ぼろぼろの布を体にまき、傷だらけだった。いとこは無事だった。周辺は火の海。黒煙が空を覆い、炎の光が反射して赤く染まっていた。
倒壊した自宅そばで父は「水がほしい」と苦しんだ。私が渡した防火水槽の水を飲むと、すぐに倒れ込んだ。近くで畑仕事をしていた祖母も全身に大やけどを負っていた。父は翌日、祖母は翌々日に亡くなった。
庭で米をついていた母はほとんど外傷はなかったが、約二週間後に突然体調が悪化。立つこともできなくなり、そのまま息を引き取った。今なら大量に浴びた放射能が影響したのだろうと考えるが、当時は死を理解することができなかった。
私は父と母、祖母の四人暮らしだった。幼稚園に通うなど周りの子どもよりも裕福な家庭で育ったと思う。容赦なく続く家族の死。私の人生は百八十度ひっくり返った。「これからどうやって生きていけばいいのか」。焼け野原で孤独と不安に襲われた。
その後、親せきを転々とし、小学五年の時に松浦市御厨町の親せきに引き取られた。特に貧しい時代。協力しながら生活した。一方で「自分がいなければ親せき家族は楽になるのでは」と後ろめたさがあった。
十九歳で長崎に戻り、三菱製鋼所に就職。被爆者という目に見えない差別や不安を抱えながら、懸命に働いて家を建て直し、家族を持った。
三年ほど前に城山小被爆校舎平和発信協議会員になった。長崎市には数多くの被爆者がいる。その一人として体験を伝えるようになった。
<私の願い>
若い人たちには「平和とは何か」を考えてほしい。戦争は両親や友人、住居など当たり前の生活を奪う。飢餓などに苦しむ世界に目を向け、平和ではない状況を想像してほしい。そうすれば日常の平和に感謝するはず。日々の生活の中で、戦争や核兵器をなくすことの大切さに気付いてほしい。