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私の被爆ノート

「助けて」の声 今も耳に

2009年3月5日 掲載
森永 正人(81) 森永 正人さん(81) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =長崎市鍛冶屋町=

当時、学徒動員として茂里町の兵器工場で魚雷の部品造りに携わっていた。空襲警報が鳴るたび避難していたため、落ち着いて製造に取り組む状況ではなかった。敵機が襲来しても迎撃に向かう日本の飛行機が来ない様子で、敗戦の様相は、はっきりしていた。

九日の朝は快晴。出勤前に飛行機の爆音が聞こえ、外を見ると偵察機が飛んでいたので「また空襲があるのか」と思った。職場で仕事をしていると、空襲警報が鳴って近くに避難した。警報が解除になったので、職場に戻り、食事の準備をしようとしていたとき、ラジオでは島原上空をアメリカの戦闘機が通過したのを報じていた。

「また偵察機か」と思った瞬間のことだった。写真を撮る際、フラッシュに使うマグネシウムを何万発もたいたような強烈な光が見えた。工場にある魚雷が爆発したのかと思った。数メートル吹き飛ばされ、工場の壁にぶつかった。意識がもうろうとしながら外に出ると、電線が何本も垂れ下がっていた。路面電車は黒焦げになっていた。

途中で会った友人たちに支えられながら、長崎駅を目指して逃げようと思ったが、近くにガスタンクがあることを思い出し、爆発の危険を感じて山手に向かった。途中、倒壊した家屋の下から「助けて」という声を聞いたが、どうすることもできずに踏み越えて逃げた。今も忘れることはできない。街が一瞬にして焼き払われたことで、すぐに広島に落ちたのと同じ新型爆弾だと分かった。

山を下ったところにある学校の救護所で応急手当てをしてもらい、必死の思いで自宅を目指して歩いた。山から自宅付近が比較的被害を受けていないことが分かって力がわいた。午後八時すぎごろ、家に着くと近所の人たちが手当てをしてくれた。父は浦上の方まで私を捜しに行ってくれたようだ。家は爆風でガラスが割れて足の踏み場もないほどだったが、家族で再会を喜んだ。戦争で亡くなった兄が守ってくれたと思っている。
<私の願い>
大切な親や子らが亡くなる戦争。最も許されないのは一般市民が犠牲になることだ。原子爆弾はそれをやった。時間がたつことで、その恐ろしさは忘れられていく。核兵器は人類の滅亡につながることを全人類に意識してほしい。破壊力が分かっていながら、再び造ることが人間の愚かさだと思う。

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