当時十歳。江の浦村(現在の諫早市飯盛町)に母や姉、弟、妹と一緒に疎開しており、警防団に所属していた父と同居の兄は自宅の長崎市小瀬戸町に残っていた。
あの時。昼から墓参りに行く予定だったので、母たちと少し早めの昼食の準備をしていた。突風が吹いてきて、ふすまが倒れた。家の外に出てみると、浦上方面の空が真っ赤に染まっている。とても不気味で怖かった。しばらくすると、風に流されて大量の灰とともに「浦上」「大橋」と書かれた紙くずが空からパラパラと落ちてくる。何が起こったのか、さっぱり分からなかった。
「長崎で何かあったのか」。不安が募り、母たちと身を寄せ合った。その日の夜、近所の人が「長崎に爆弾が落ちて大変なことになっている」と教えてくれた。母たちと長崎に入ろうとしたが、「被害が大きいから入らないほうがいい」と近くにいた人に止められ、仕方なく家に戻った。
十一日、父が疎開先にやってきた。無事が分かり、ほっとした。父は、長崎の被害状況を話し始めた。とにかくひどいということだったが、よく覚えていない。被爆直後、浦上に住んでいた父の妹の家族の安否が気掛かりで捜しに行ったが、家族全員亡くなっていたことを打ち明けた。いとことは一緒に遊んだこともあったので、とても悲しかった。
十六日、前日の敗戦の報を聞き、長崎に戻ろうと、家族全員で江の浦村を出発した。翌十七日、日見峠を越えて、蛍茶屋から中心部に入った。遺体はすでに収容されたのか、見当たらない。県庁から電車の線路沿いに稲佐橋に向かって歩いていると、ガスタンクから煙が出ている。建物はほとんど倒壊し、一面焼け野原。馬の死体がいくらか転がっている。変わり果てた街並みにがくぜんとした。
家に戻り、近所の友人たちと再会、無事を確認し喜び合った。焼け野原となった街や爆弾への恐怖を話し、怖かった様子を振り返った。
<私の願い>
戦時中は、食べ物もなくつらかった。核兵器は大切な親類を奪ってしまった。あのようなつらい思いは二度としたくないし、子どもや孫たちにもさせてはならない。戦争は二度と起こしてはならないし、核兵器も廃絶すべきだ。