消えない傷、消えない記憶-。戦争と原爆がなかったら、私の人生はもっと違ったものになっていただろう。平和の実現を切に願い、長年語ることのできなかった「あの日」の記憶をありのままに伝えたい。
当時十七歳、旧制鎮西学院中(現在の活水高の位置)四年生だった私は学徒動員で三菱長崎兵器製作所茂里町工場に勤務し、魚雷のエンジン部品製造に携わっていた。原爆が投下されたのは後輩と立ち話を終えて作業台に戻った時だった。
黄色い閃光(せんこう)を左から浴び、とっさにしゃがんだ。耳をつんざくごう音とともに工場は崩壊し始め、天井が落ちてきた。直撃は免れたが、衝撃の中、吸い込まれるような感覚がして、その場で気絶。気が付くと左半身を中心に両腕や首筋、背中にやけどを負い、割れた窓ガラスの破片が刺さっていた。がれきからはい出し、夢中で工場から脱出した。
銭座町の聖徳寺のがけ下にあった防空壕(ごう)に避難すると、中は多くのけが人がいた。一緒に大学病院へ向かうと、浦上方面からぞろぞろと人が歩いてきた。服はぼろぼろ、やけどや切り傷を負い、血を流していた。その背後に広がる風景に驚いた。木造家屋はぺちゃんこ。見渡す限り廃虚になっていた。原子爆弾による被害とは分からず「地球に何か異変が起きた」と思った。
大学病院に行くのをあきらめ高平町の自宅に向かった。途中、やけどで体を真っ赤にした外国人捕虜の一団を見た。みんな放心状態だった。私も精神的ショックが大きく、現状を受け止めるので精いっぱい。けがの痛みや恐怖、不安は少しも感じる余裕さえなかった。
「よう帰ってきたね」。自宅近くの防空壕で母と姉、弟二人の無事を確認。母の言葉に安堵(あんど)した途端、体が動かなくなった。それから約二週間、意識不明で寝たきり状態が続いた。一度回復したが、十月に再び倒れた。高熱に苦しんだが、母と姉の看病で回復した。
<私の願い>
高熱に浮かされ、苦しんだ日々…。自分のような体験を子どもたちにはさせたくない。核兵器の使用は戦争の延長線上にある。核廃絶はもちろん、戦争そのものをなくすべきだ。人が生きる限り実現しにくいことかもしれないが、それでも何とかして地球上からなくすことができないものか。