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私の被爆ノート

家族励まし続けた母

2009年2月5日 掲載
鳥巣千榮子(83) 鳥巣千榮子さん(83) 爆心地から3.2キロの長崎市諏訪町で被爆 =長崎市三ツ山町=

原爆投下の惨状の中、母は「頑張れ、頑張れ」と家族を励まし続けた。あの状況下でわたしは母のような行動はできない。今生きているのは母のおかげかもしれない。

実家は衣類の補正や仕立てを請け負っていた。当時わたしは十九歳で、家の手伝いをしていた。

あの日も家で店番をしていたが、朝から空襲警報が鳴り続いた。鳴る度に風頭の高台まで避難し、店と風頭を何度も往復しなければならず仕事にならなかった。

何度目かの警報が警戒警報に変わり、家に帰り着いた瞬間、何かが爆発するような衝撃が起こった。家全体が揺れて屋根は吹き飛んだ。とっさに机の下に隠れたが、死ぬかもしれないとの恐怖を感じた。

町内の住民は皆逃げるのに必死だった。「米兵がやって来て、殺されてしまう」というデマも流れ、さらにパニック状態になった。付近のさまざまな建物から火の手が上がり、逃げる人の中には全身にやけどを負った人もいた。

家族六人は床下の防空壕(ごう)に入った。家の中で避難する場所はそこしかなく、身を寄せ合って夜明けを待った。

床下は暗く、生き埋めになるかもしれないと不安だった。そんなとき、「頑張りなさい。もうすぐ夜が明ける」と声を掛けてくれた母は頼もしかった。

式見に事前に購入していた家に避難するため翌朝、歩いて移動。家族六人で手をつないで歩いた。あまりに遠い道のりで、歩いている途中に、ここで死んでしまうのかもしれないと不安になったことを覚えている。このときも母が「頑張ろうね」「もうすぐだから」「死ぬときは一緒よ」と、歩きながら大きな声でわたしたちを元気づけた。

母は子どもの私たちに自分の分の保存食も食べさせてくれた。恐らく母は何も食べていなかったはず。母は本当に強かった。

式見には夜遅くに着いた。「もう大丈夫ですよ」。近所に住む人たちから声を掛けられ、ほっとしたあまり、家族全員その場に倒れ込んだ。
<私の願い>
今の子どもたちは戦争を知らない。今が平和だからかもしれないが、戦争の体験を話すと、何か面白い物語を聞いているかのような反応をする。 戦争を経験した者として若い世代に戦争の悲惨さを伝えていきたい。何度でも理解させるよう伝えることが私たちの使命と思う。

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