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私の被爆ノート

水飲ませられず後悔

2009年1月29日 掲載
中島 玲子(78) 中島 玲子さん(78) 爆心地から3.3キロの岩屋町で被爆 =長崎市滑石1丁目=

「玲子!爆弾!ここに落ちたよー」。台所で昼食の準備をしていた母の叫ぶ声が響いた。ちょうど家に戻り、いすに座った時だった。目がつぶれるほどの光と同時にガラスが全部割れ、たんすが倒れた。家の中は危険だと感じ、たんすの下敷きになった祖母を助けだして、母と一歳の妹と四人で家の外に出た。

わたしは六人きょうだいの次女。二人の弟と妹は母の使いで近くの川へ、姉と父は水の浦の職場に行っていたが、みんな無事で帰ってきた。

少ししてからまだ帰らない弟たちを駅のそばを流れる川まで捜しに向かった時、駅には負傷した人がたくさん横たわっていた。わたしがそこを通り掛かると、知らない女の人から足を握られた。「お姉さん…お水ちょうだい」と、か細い声で訴えてくる。びっくりしたが「よし。持って来る。頑張ってね」。そう言って、家の裏にある井戸から水筒いっぱいに冷たい水をくみに戻った。その人に飲ませようとした時、軍医から厳しく怒られた。「おまえが水を飲ませたら死ぬぞ」。飲ませてあげたかったけれど、死なせるわけにはいかない。急いで家に持って帰った。止める軍医が憎かった。

翌日、あの人は大丈夫かと、様子を見に行ったが、見つけることはできなかった。そこにはたくさんの人が川に沿って折り重なって死んでいた。動けない体を引きずって川の水を飲みに来たのだろう。それを見た時、「やっぱり飲ませてあげればよかった」と後悔した。今でも残念で悔いが残っている。

夏場だったこともあり、やけどでただれた部分は本当ににおいがきつかった。顔にはハエが止まり、うじ虫もわいていた。

きょうだいで生きているのは当時一歳だった妹と二人だけになった。被爆してから五十年以上がたったころ、あの日、川にいた弟らはがんで亡くなった。原因は放射能を浴びたことだと言われた。いつわたしに後遺症が襲ってくるのかと不安が募る毎日だ。
<私の願い>
世界平和のためにも一番はやっぱり核兵器廃絶。わたしたち被爆者は高齢化している。若い人にも協力してもらい、実現したい。高校生が街頭で署名活動などをしてくれているのは本当にありがたい。そして、被爆者が安心して治療を受けることができるよう、原爆病院を残してほしい。

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