長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

飛行機音におびえ避難

2009年1月22日 掲載
中尾トシ子(86) 中尾トシ子さん(86) 爆心地から3.3キロの本下町で被爆 =長崎市矢の平3丁目=

当時二十二歳。長崎市浜町にあった長崎貯金支局に勤務。あの日は午前九時に間に合うように出勤し、本下町(現・築町)の支局分館に同僚と二人で向かった。

三階に上り、持ってきた通帳の束を机に置いた時。「敵機だ。隠れろ」と大きな声。直後にドカーンという大きな音。「目の前に爆弾が落ちた」と思い、すぐに目と耳を手でふさぎ、うずくまった。

恐る恐る目を開けると、爆風で窓ガラスは割れ、外は土煙。部屋の中は、机やいすなどが散乱。ガラスの破片で少し腕を切ったが、長袖を着ていたため大事には至らなかった。

「八坂神社(鍛冶屋町)へ避難しろ」と指示が出た。同僚と二人、二階の医務室にあった布団で頭を隠し、八坂神社を目指した。周囲の景色を眺める余裕は全くなく、敵機の飛行音におびえながらひたすら走った。

境内で別の同僚二人と合流。神社裏手の山へ隠れた。だが、どこにいても敵機に見つかるような気がして、くぼ地に沿って山を登ったり下ったりを繰り返した。とにかく怖くて必死だった。

夕方になり、皆で相談して家に帰ることになった。八坂神社で合流した二人は、城山方面に住んでいたので、自宅に泊まらせることにした。

家に着き、ようやくほっとした。夫の両親は無事だったが、夫の弟が帰ってこない。翌日、近くの学校にけが人が運ばれていると聞き、近くに住む兄嫁の母と一緒に学校へ向かった。だが、けが人が並ぶ講堂には怖くて入る勇気が出なかった。運動場で立ち尽くしている時、ふと気配を感じた。振り向くと、男女の区別もつかない真っ黒焦げになって歩いている人がいた。怖くて怖くて目を開けることができなかった。

結局、夫の弟はその場では見つからなかった。諫早あたりまで運ばれていて一命は取り留めたものの、ひどいけがを負っていた。
<私の願い>
核兵器の使用はもちろん、戦争はどんな理由があっても絶対に起こしてはいけない。あの日から六十四年となる今に至っても、世界各地で戦争が起き、核兵器を持つ国が増えていることはとても残念。二発の原子爆弾が落とされた日本は、もっともっと世界に対して平和の大切さを訴えるべきだと思う。

ページ上部へ