当時、二十歳。戦禍を避け、現在の松浦市に住んでいた。八月九日、近所の人が「長崎に新型爆弾が落ちた。ひどい状態だ」と自宅に駆け込んできた。長崎市には出征中の夫の実家があり、義理の両親や親族がいた。心配で、現地に行くと決めた。しかし、駅は同じような事情を持つ人でごった返していた。十一日朝、ようやく切符を入手。当時三歳の息子を背負って汽車に乗った。
汽車は長与駅で止まり、市街地まで線路伝いに歩いた。途中、全身のやけどで血を流し、乱れた髪で、はうように歩く負傷者と何度もすれ違った。中には「水をください」と脚にしがみつく人もいたが、水筒には息子のための少しの水しかなかった。申し訳なく、首を横に振るしかなかった。
夕方、大橋町に着くと周囲の景色にがくぜんとした。建物はすべて倒壊。がれきはくすぶっていた。浦上川近くには、水を求めて力尽きた黒い死体がいくつも連なり、水を飲みながら朽ち果て、頭部だけが川に漬かった死体もあった。地獄絵図のようだった。浦上駅近くの夫の実家に着いたが、親族は見当たらなかった。近所の人が防空壕(ごう)に逃げたと教えてくれたが、そこでも見つけることはできず、翌日、松浦に戻った。
その後、福岡県へ避難していた義父と連絡が取れた。義父は、義理の兄、弟を連れて逃げたが、二人は原爆の後遺症で亡くなっていた。九月中旬、義父を迎えに行き、あの日のことを聞いた。
原爆が落ちた日。家には義理の父と妹、弟の三人がいた。突然、光に覆われ、爆風で家が崩壊。当時十七歳だった義妹は下敷きになった。残る二人で助け出そうとしたが、体が挟まり抜けなかった。火の手が上がると義妹は「父ちゃん、私はいいから逃げて」と叫んだ。義妹を巻き込みながら家は燃え落ちたという。「何もしてやれんかった…。ほかの死んだ子どもたちにも」。義父のおえつのような泣き声が今も耳に残っている。
<私の願い>
私たちは核兵器によってすさまじい体験をした。そこで学んだことは、何があっても二度と戦争を起こしてはいけないということ。争いは対話で解決できる。核兵器のない世界を子どもの世代に伝えていくことが願いだ。核兵器を再び使用すれば、世界は滅びてしまうと思う。