岸川 潤二
岸川 潤二(73)
岸川 潤二さん(73) 爆心地から3.6キロの船大工町で被爆 =長崎市鍛冶屋町=

私の被爆ノート

焼け野原に言葉失う

2009年1月8日 掲載
岸川 潤二
岸川 潤二(73) 岸川 潤二さん(73) 爆心地から3.6キロの船大工町で被爆 =長崎市鍛冶屋町=

当時国民学校の四年生。空襲警報が頻繁に鳴り、避難する日々。戦闘機の機銃掃射を見たり、知人が亡くなったりと戦争が身近にあることを実感し、恐ろしかった。軍国主義の時代。口に出せなかったが「早く戦争が終わってほしい」といつも考えていた。

八月九日は朝から空襲警報が鳴り、自宅近くの防空壕(ごう)に避難していた。警報が解除になったので、昼食の準備のために母と自宅に戻っていたときだった。飛行機の音が聞こえたので、縁側から外を見た。その瞬間、強烈な光が見えて爆風で部屋の奥まで吹き飛ばされた。

屋根瓦はなくなり、家の中から空が見えた。畳もめくれ上がり、家財道具も倒れていた。昼間だったが、周囲が暗くなった。

そのときは、すさまじい破壊力を持った爆弾だったとは想像できず、近くが爆撃されたのだと考えた。母と一緒に防空壕に向かった。壕の近くにあったコンクリートの建物までもが倒壊していた。

壕には、すでに近所の人たちが避難していた。新型爆弾が落ちたらしいといううわさを聞き、不安な思いばかりを募らせて過ごした。消防団の救援活動で長崎市内に来ていた親類の男性が、市の中心部は壊滅状態だということを教えてくれた。がれきの撤去が進む十一日を待って、親類の家に疎開することにした。

十一日は昼ごろに長崎を出発して、西彼長浦村(当時)を目指して歩いた。見渡す限りの焼け野原。原爆投下から二日たっても、行く先々で炎がくすぶっていた。馬の死体や骨組みだけになった電車の残骸(ざんがい)があった。言葉を失った。

あちらこちらで死体を焼いていて、なんとも言えないにおいがした。おにぎりを持っていたが、とても食べる気分ではなかった。周りをなるべく見ないようにして歩いた。親類宅に着いたとき、心底安堵(あんど)した。
<私の願い>
大量破壊兵器である核兵器廃絶の重要性を痛烈に感じる。これだけ多くの人が戦争に反対している中、国民のことを考えていない各国首脳の権力闘争が不幸を招いている。戦争は人類の破滅につながるということを若い人たちに学んでもらい、なくすために努力を続けていってほしい。

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