当時十四歳で、上野町にあった県立工業学校の一年生。矢の平町で祖母や母、きょうだいと十人暮らし。父は陸軍に召集され、大阪にいた。学校に通いながら、報国隊として三菱の幸町工場で船の部品を作っていた。
あの日、私は午前中に学校で、午後から工場での作業だった。午前八時前だった。蛍茶屋の電停で、近所の先輩二人と一緒に電車を待っていると、警戒警報が鳴った。「学校に行っても、すぐに避難しないといけない。取りあえず家に戻ろう」と話し合い、それぞれ家に帰った。
警報も収まり、空襲も何もなかったので、学校に行こうかと、再び準備している時だった。「ピカッ」。突然、家の中に、稲光と比べものにならないほどの強い閃光(せんこう)が部屋の中に差し込んだ。とっさに家の奥に隠れた。次の瞬間、窓ガラスが割れる音や、食器棚が倒れる音が響いた。
「もう収まったかな」。しばらくして、家の外に出てみると、庭にいくつか屋根瓦が落ちている。広島に新型爆弾が落ちたことはラジオで知っていた。以前、近くの山に焼夷(しょうい)弾が落ちた時より被害が大きかったので「長崎にも新型爆弾が落ちたのかな」と思った。しかし周りの家を見渡すと、どの家も窓ガラスが割れたり、瓦が落ちているが、思ったより被害はひどくない。「(新型爆弾でも)被害はそれほど大きくならないものだな」と感じた。
だが、夕方ごろ、近所の同級生と風頭山に登ってみると、街並みが一変していた。浦上の方から、現在の江戸町の県庁辺りまで、建物は総崩れで、炎が上がっている。恐ろしくなってあぜんとした。
幸い家族は皆無事だったが、父の妹が城山に嫁いでいた。母は、そのことが気にかかり、翌日城山に向かった。父の妹は無事だったが、母はすぐに中心部に入ったせいか、その後、重い白血病にかかる。大量の輸血が必要で、私は職場の同僚にも協力をお願いして血を分けてもらった。母は二十五年間の闘病生活を終え、六十三歳で世を去った。
<私の願い>
核兵器を廃絶しないと世界は滅亡に向かう。闘病する母を見て、原爆で生き残っても一生苦しむし、家族も苦しむことを実感した。そのような核兵器は早く廃絶すべき。戦争も子どもや親を分断してしまい、生き残った子どもがつらい目に遭う。戦争もなくすべきだ。