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堀田武弘さん(77)
被爆当時3歳 爆心地から約3.3キロの長崎市伊良林1丁目で被爆

私の被爆ノート

吹き飛んだ「リンゴ」

2019年06月27日 掲載
堀田武弘さん(77) 被爆当時3歳 爆心地から約3.3キロの長崎市伊良林1丁目で被爆

 幼かった私は長崎原爆の状況を鮮明に記憶しているわけではない。強く覚えているのは、爆風で吹き飛んだ「赤いリンゴ」のことだ。
 当時の私は7人きょうだいの三男。現在の長崎市伊良林1丁目で、木造2階建ての借家に家族9人で暮らしていた。戦争が激化し、町には日常的に警戒警報や空襲警報が響き渡っていた。サイレン音や爆撃音を聞いたら、自宅近くの防空壕(ごう)に急いで逃げるように両親に教えられていた。幼いながらも避難の習慣が体に染み付いていた。
 あの日は、自宅近くの大家さんの家の玄関前で、7歳上の姉と3歳上の兄と一緒に、ままごと遊びをしていた。ござの上に置いていたのが、コンクリートを丸く固め、赤ペンキを塗って作ったようなリンゴのおもちゃ。手のひらほどの大きさで、ずっしりと重い。真っ赤なそれが私の唯一の遊び道具だった。
 戦闘機のブーンという音が聞こえたのか、爆音を耳にしたのか、それとも誰かが「逃げろ」と叫んだのか、記憶にない。原爆が落ちたとき、一人でとっさに防空壕まで走った。距離にして約10メートル。強い爆風も閃光(せんこう)も感じた記憶はない。体は無傷だった。
 間もなく、一緒にいた姉と兄が防空壕に来た。2人は私を探していたようで、ひどく安心したらしい。自宅で被爆した母と、きょうだい3人も防空壕に逃げてきた。このうち長兄は屋根の上で燃料用の木材を乾燥させる作業をしていたらしく、熱線で背中に大きなやけどを負っていた。
 防空壕の外に出て、遊んでいた場所に戻ってみると、お気に入りのリンゴのおもちゃが見当たらない。「リンゴがなくなった」と大泣きし、姉と兄にすがりついて一緒に探した。爆風で吹き飛んだのだろうか、おもちゃは大家さんの家から少し離れた光源寺の前に転がっていた。私は全く覚えていないが、再びリンゴを手にした途端に泣きやみ、大喜びしたと聞いた。
 自宅は、倒れたトタンの塀が玄関部分をふさぎ、中に入れない状態になっていた。後に家族から聞いた話では、家は爆風で斜めに傾き、ガラス窓が割れていたようだ。
 梅香崎町付近の職場で被爆した父は、ガラス片が体に突き刺さり、シャツが血で真っ赤に染まっていたという。友人宅に遊びに行っていた姉も無事で、幸いにも家族は皆、命を落とさずに済んだ。

<私の願い>

 幼いころは「平和」の言葉さえ知らず、原爆による被害も特別なことではないと思っていた。世界は今も紛争が起き、昔の私と同じように平和を感じられない子どもたちがいる。原爆を経験した者として平和を継承していきたい。

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