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私の被爆ノート

父は寝たまま白骨化

2008年12月18日 掲載
中川 知昭(72) 中川 知昭さん(72) 爆心地から3.3キロの鳴滝町(現・鳴滝2丁目)で被爆 =長崎市滑石6丁目=

「すぐ家に入りなさい!」。縁側で縫い物をしていた母が叫んだ。母の元へ走り、靴脱ぎ石に片足を上げた瞬間、背後がピカッと光り、間もなく猛烈な爆風。家の中に吹き飛ばされた。

私は当時九歳、伊良林国民学校三年生だった。隣に住む三歳のいとこと自宅の庭でセミを捕っていた。家の中は割れた窓ガラスや茶わんが散乱。柱にはガラスの破片が突き刺さっていた。私と母、いとこのほかに祖父母とおじがいたが、全員無事だった。

家の片付けをするという祖父を残し、近くの防空壕(ごう)に避難。中はごった返していた。血がにじんだ包帯を頭に巻いた人、洋服が焼けてしまった人が運ばれて来た。夜になって壕を出ると、浦上方面の空が異様な赤色に染まっていた。不安な一夜を壕で過ごした。

翌日、大工だった祖父が、自宅から少し離れた竹やぶに避難小屋を造り始め、私も手伝った。その数日後、長崎医科大付属病院に入院していた父は爆死したという知らせが入った。ベッドに寝た状態で白骨化していたそうだ。むごい知らせだった。

数日後、母と同大付属病院の様子を見に行くと爆心地方面は一面、焼け野原だった。

三菱長崎製鋼所は鉄骨がむき出しになり、ぐにゃぐにゃ。地面には黒焦げの馬が横たわり、焼けた路面電車の残骸(ざんがい)があった。視界を遮るものがなく、製鋼所があった場所から崩壊した浦上天主堂が遠くに見えた。一発の原爆が長崎を“死の世界”に変えた。恐ろしい。その場に立ちすくんだ。

八月十五日も祖父を手伝った。終戦を告げる玉音放送を聞いたという見知らぬ人が「戦争の終わったばい」と声を掛けてきた。祖父と私は驚き「もう小屋はいらんね」と顔を合わせた。時代が変わる。造りかけの小屋を放置し、道具を持って自宅に帰った。
<私の願い>
長崎平和推進協会の平和案内人として修学旅行生に被爆遺構を案内したり、被爆体験を語ったりしている。原爆の実相と真実を子どもたちにしっかりと語り継ぎたい。戦争は平和を乱す。核兵器は殺りく兵器。私の話を聞いた子どもたちが平和な世の中を築いてくれることを願っている。

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