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私の被爆ノート

昼か夜かも分からず

2008年12月11日 掲載
田中 クラ(81) 田中 クラさん(81) 爆心地から0.7キロの坂本町で被爆 =平戸市大久保町=

当時十七歳。長崎医科大学病院に看護師として勤めていた。毎日のように空襲警報が鳴り、昼夜を問わず、そのたびに患者さんを連れて防空壕(ごう)に避難していた。

原爆が投下されたときは病院二階の処置室にいた。注射器に半分ほど液を入れた瞬間、強い光線が窓の外をよぎった。そこからの記憶がない。

気が付くと、吹き飛ばされ鉄筋コンクリートの下敷きになっていた。意識が戻ったりなくなったりを二、三回ほど繰り返した。時間がどれくらいたったか分からない。コンクリートがずれたすきにはい出した。部屋にいた患者や看護師は全員、真っ黒こげになっていた。何が何だか分からない。付近は火の海だった。

病院の建物は一部残っていたが壊滅。大学生向けの講義が行われていた大講堂では、いすに座った姿勢のまま数十人が真っ黒こげになっていた。ショックを通り越した精神状態。あの時見た光景は表現できない。

昼か夜かも分からない。赤い炎と真っ黒い煙が立ち込めていた。生存者が「助けてー」「水くれー」と声を上げていたがどうすることもできない。近くに歩いている列があったので、無我夢中でいっしょに歩いた。小高い丘の墓場にたどり着き、疲れ果てて眠った。

冷たさを感じて目を覚ますと雨だった。汚れた黒い雨だった。それからあてもなく歩き回り、山中に明かりが見えたので民家を訪ねた。家人は私の姿を見て驚いた。顔には前が見えないほど血が流れ、服はぼろぼろ。はだしで歩いた足の裏はやけどで水膨れし、皮膚がめくれていた。わら草履をもらい、乾パンをもらって食べた。

翌日、病院に戻った。死体だらけの中、「おまえは誰か」と声を掛けられた。けがを負った永井隆博士と診療放射線技師だった。それから一週間ほど一緒に、生存者や建物の確認のため行動をともにした。「両親が心配しているから帰れ」と言われ、苦労しながら平戸の実家にたどり着いた。
<私の願い>
今でも毎日、午前十一時二分になると緊張する。生きている間、目にした被爆の光景を忘れることはないし、また忘れてはならない。戦争は嫌。二度と繰り返してはいけない。若い世代には「戦争は絶対にしてはいけない」と伝えたい。それから、核兵器で人が幸せになることはない。

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