「ただ事ではないな」。幼いながらにそう感じた。当時八歳。家の前で遊んでいた時だった。ピカッと光った後、間も空けずにすごい威力の爆風。ゴーという音を立てて地面が揺れた。
無我夢中で駆け込んだ場所は自分の家ではなく、隣の家。あまりに突然のことだったので遊んでいた場所から一番近い場所に逃げ込んだ。
爆心地から距離のある西泊町でさえ、あれほどの威力。今振り返ると、中心部の人の被害を想像すると恐ろしい。自宅は棚の物が落ちてきたぐらいで、火事にもならず、大きな被害はなかった。立神の三菱重工長崎造船所に働きに出ていた姉や兄も無事に帰ってきた。
その夜、山の上にある防空壕(ごう)に向かっていた時に見た浦上方面の風景が忘れられない。何と表現したらいいのか分からないような色で燃え続けていた。その後も二-三日は続いたのではないだろうか。
昔はどの家庭も貧しく、満足するほどの食事はできなかった。わたしの家は以前から芋などを栽培していたが、もちろんそれだけでは足りない。姉らが朝早くから諫早方面まで買い出しに行ったり、五島の親せきが食料を送ってくれたので、なんとか飢えをしのいでいた。
原爆落下から九日後、わたしと当時五歳だったすぐ下の弟らは、佐賀の親せきの家に疎開。どのような経緯で疎開したのか確かではない。ただ、西泊から浦上まで歩いた風景は鮮明に覚えている。家や工場はぐちゃぐちゃ。茂里町の鉄工所の柱はあめのように曲がっていた。重なり合った死体の上にまきを置き、何カ所にも分かれて消防団の人たちが燃やしていた。そんな悲惨な様子を見ても当時のわたしは何とも思わなかった。自分のことで精いっぱい。他人のことを考える余裕はなかった。
変わり果てた街並みを見ながら着いた佐賀県はカエルが鳴き、米の穂は垂れ、長崎が失った平和な風景だった。一発の原爆の力を痛感した。
<私の願い>
本当の平和な世界は、何もせずに実現するものではないと思う。簡単に「平和」と言うのではなく、自分の心の中に平和を求める気持ちが必要なのではないか。それぞれが平和に関心を持ち、その思いに向かって、各自が努力しなければいけないと思う。