白い洋服が私の命を助けたのでは-。原爆投下時に身に着けていた白の上着は不思議とどこも焦げたり焼けたりしていなかった。小学生の時に自分で作ったお気に入りの外出着が閃光(せんこう)をはね返したのだろうか。紺色のズボンはぼろぼろだった。
当時十四歳。二月に神戸から長崎に疎開し、三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場の事務所で働いていた。
この日も、トンネル内で職場の人の弁当を申し込むため人数を調べていた。空襲警報が解除となったので、隣のトンネルにも人数を聞こうと外に出た。
トンネルを出た瞬間、背後から強烈な光を浴びた。それと同時に約七メートル先にある、二つ先のトンネルの入り口まで飛ばされた。洋服の袖から出た両ひじの辺りは黒く焼け、両足のももには茶わん大の水膨れができた。
トンネル内は皆、何が起きたか分からなかったようだ。私が「痛い痛い」と言っても誰も気付かなかった。工場内は停電して真っ暗。私を手当てしてくれる余裕はなかった。
米軍の飛行機が接近してきたので痛い足をひきずり、近くの竹やぶに避難。そこにはけがをした近くの住民らもいた。白の上着を着た私は「目印にされる」と煙たがられた。私は白い洋服を着ていたので、助かったと思っていたのだが。
「五時に大村陸軍の貨車が来る」と聞き、道ノ尾の線路まで行ったが、貨車は来なかった。偶然会った姉と線路の上を歩いて、馬町にある姉の友人の家を目指した。
浦上駅前で兵隊が水筒の水を少し分けてくれた。ずっと水は口にしていなかったので、本当においしかった。真っ黒の電車、立ったまま黒くなって死んでいる馬。長崎駅前には建物が一軒もなく、県庁は火柱を上げて燃え鉄骨だけだった。
姉の友人宅で一夜を明かした次の日、本河内にある実家に戻り家族と再会。思わず父に抱きつき、涙があふれた。
<私の願い>
今も世界各地で戦争が続いている。世界平和を願うのであれば、核兵器は絶対なくすべきだ。私が当時感じたつらい思いを、誰も味わってほしくはない。これまで自分の体験は聞きたい人には話をしてきた。今後は小学生など若い世代に語り継いでいきたいと考えている。