「早めに食べようか」。朝から警戒警報が鳴り響いた八月九日。警報はすでに解除されていたが、母は「また爆撃機が来たら昼食を食べられなくなる」と考え、そう言って準備を始めた。私たちきょうだいは自宅で遊びながら昼食ができるのを待った。
自宅は、飽の浦町三丁目(現入船町)。すぐ近くには、たびたび爆撃を受けていた三菱長崎造船所があり、その爆風は自宅まで届いた。八歳の私は好奇心から飛行機を見たがったが、そのたびに母に「危なかけん、見に行ったらいけん」と注意を受けていた。
その日はわけが違った。六畳の広間で、丸いお膳(ぜん)を囲んで雑炊を食べようとしたまさにその時。ピカッとまばゆい光が走り、バーンというごう音。同時にすさまじい爆風が襲ってきた。
家の雨戸はすべて吹き飛び窓ガラスは割れ、柱は傾き、家の中はまさにグチャグチャ。皆瞬間的に、お膳の上に突っ伏した。庭に落ちたのではないかと思ったほどだ。だが、窓際にいた姉の頭にガラス片が刺さった以外はけがはなかった。
すぐに自宅近くに父が掘っていた防空壕(ごう)に避難。壕には次々に被爆した人が入ってきた。私は怖くて壕の中でジッとしていた。夜遅く、造船所へ仕事に出ていた父が戻って来て少しほっとした。
その日から自宅の片付けをして過ごした。「浦上の方は全滅」との父らの会話を聞き、夕方、道端から浦上方面を見ると雲が真っ赤になって今にも焼け落ちそうだった。
十二日になって父の実家のある野母崎へ疎開。途中、熱風で焼けたがれきには、まだ火がくすぶり、胸にやけどを負った人、全く生気が感じられない人が歩いていた。「とにかく、遠くに行きたい」。その一心だった。
野母崎にたどり着いて、やっと「敵が来ないところに着いた」と安心した。十五日ごろ、戦争は終わったと聞き「うれしい」。素直に思った。
<私の願い>
北朝鮮やイランなど、世界各地で核兵器が拡散し心配している。だが、核兵器を保有する国が「核を持つな」と言っても説得力がない。まずは、米国、ロシアなどの核大国が核兵器を放棄すべきだ。インド洋で給油活動を展開しながら、消費税を上げようとしている日本政府もおかしい。軍事予算を削って、別のことにお金を使うべきだ。