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私の被爆ノート

夜の空、一晩中炎に

2008年11月13日 掲載
赤窄キミエ(81) 赤窄キミエさん(81) 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐3丁目で被爆 =五島市岐宿町=

五島から本土に来て、稲佐の鉄工所に勤務していた。当初は鉄板加工などの作業に従事。やがて給仕を任された。当時、十八歳。庭の炊事場でB29が飛行する音を聞いた。「変な音だな」と思いながら、事務所の引き戸を開けて入った途端、閃光(せんこう)が走り、窓ガラスが内側に湾曲したように見えた。机と机の間に吹き飛ばされ、屋根が落下し、辺りは真っ暗になった。

しばらくして、どうにかはい出した後、出火した。逃げる途中、倒壊した食堂から「助けてくれー」と幾度も叫ぶ男性の声が聞こえたが、なすすべもなかった。鉄工所のお手伝いの女性と稲佐署の近くの防空壕(ごう)まで逃げると、多くの人が避難して来ていた。壕の中に身を潜めたが、多発する火事で煙が流入してきたため、みんなで稲佐岳の公園に移ることにした。その道程、性別も分からないほど黒焦げになって倒れている人を、何人も見た。三日前に広島に新型爆弾が落とされたことは聞いていた。「それに違いない」。恐怖に震えた。

稲佐岳で夜を明かした。大波止方向からドラム缶が爆発するような音が何度も聞こえ、夜の空は一晩中、炎に照らされていた。生きた心地もしなかった。翌日、鉄工所裏の防空壕に行ってみると、生き残った従業員が集まっていた。保管用の米や缶詰で飢えをしのぐことができ、終戦まで過ごした。顔をやけどした女性もいて、患部にうじ虫がたかっていたが薬もなく、かわいそうだった。

敗戦で米軍が来ると思い、亀岳村(現在の西海市)までみんなで逃げたと記憶している。そして、八月二十八日に五島に帰った。髪の毛が抜け、吹き出物ができ、おなかを壊し、丈夫だった体はすっかり弱くなってしまった。病院に通いながら実家の農業を手伝った。本当につらかったのは、原爆の後だったかもしれない。

でも、結婚した夫が優しい人で、気遣ってくれた。子どもたちも支えてくれた。いい家族に恵まれ、それが何よりの幸せだった。
(五島)

<私の願い>
核兵器や戦争は、世界からいまだになくなっていない。これからどんな世の中になっていくのか不安。子や孫たちの世代はずっと幸せに暮らしてほしい。私たちのような体験は決してさせたくない。平和な世の中になってほしいという切なる願いを込めて一生懸命、神にお祈りしています。

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